桂林

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[エッセイ 40](既発表 5年前の作品)
桂林

 料理なら、食前酒があり前菜がある。メインディッシュは終わり近くに運ばれてくる。音楽もしかりである。ストーリー性のあるものなら、ハイライトはたいてい後半にやって来る。終わりよければすべて良し、が一番ハッピーな形である。ところが今回は、ベートーベンの「運命」のように、ジャジャジャジャーンといきなり「山」がやってきた。

 今回参加した公募ツアー「まるごと南中国」には、桂林の漓江下りが冒頭に組み込まれていた。桂林市内のホテルから約1時間かけて船着場に到着、100トン近くはあると思われる観光船に乗り込んだ。船は、緩やかな流れに乗って下っていく。想像の世界だけであろうと思われていたあの墨絵の風景が、現実に目の前に広がっている。

 山の高さは100~200メートル程度、高くても500メートルまでは届かないはずだ。その形は千差万別であるが、基本形は先の丸くなった短い竹の子を想わせる。松とおぼしき低い樹木が生えてはいるが、岩山であるためその肌がむき出しになっている部分も多い。

 地面から突き出てきたようなその奇怪な峰々が、次々と現れあるいは何重にも重なって見える。緩やかに蛇行する漓江。切り立つ断崖絶壁。松の緑と黄ばんだ岩肌。おりしも、船は東南に向かって下っている。逆光にみる光とシルエットのその光景は墨絵そのものである。

 本来なら、陽朔までの45キロを半日かけて下っていくはずであった。ところが、この夏の異常渇水で浅瀬が出現し大型船の通行が不能になってしまった。船は途半ばにして折り返し、2時間半後にはもとの船着場に戻っていった。

 桂林とは、そそり立つような険しい山々が河の両側に迫る、単なる渓谷であろうと想像してきた。ところが、市内のホテルを出て船着場までの約一時間、陸路も同じ光景であった。船着場から、船に替えての陽朔までの国道沿いも同様であったことはいうまでもない。

 いったいどれくらいの広がりがあるのだろう。ガイドは、日本の県の面積にして3つ分くらいはあるだろうといっていた。山の数はいくつくらいまで数えられるのだろう。彼は、「山ほどあります」と答えていた。

 桂林は墨絵の古里といわれている。墨絵は、墨一色で書かれていながらその実豊かな色彩を感じさせる。たしかに桂林は、時間、場所、天候や季節、そして見る人によってその色は大きく違って見える。墨絵は、油絵のような押し付けがましい色彩を嫌い、見る人にその感性を委ねようとしている。

 桂林の大自然に身を置き、畏敬の念をもってそれを受け入れるとき、墨絵の本当の世界が見えてくるのではなかろうか。
(2003年12月5日)