晴耕雨読

[風を感じ、ときを想う日記](1259)5/28

晴耕雨読

 

 晴耕雨読、この一週間、なぜかこの熟語が頭に浮かんでは消えた。お天気がよかったことと、いろいろな行事が集中したためである。もとの意味は、「田園で世間のわずらわしさを離れて、心穏やかに暮らすこと。晴れた日には田畑を耕し、雨の日には家に引きこもって読書する意から」(三省堂 新明解四字熟語辞典)。本来なら、雨の日はマイペースでゆっくりと読書でもして・・というところだが、行事に振り回され“晴耕”だけが頭にクローズアップしてきたようだ。

 

 たしかに、この一週間はそれなりに忙しかった。上半期の半公的な行事、といってもグラウンド・ゴルフの大会だが、それが2回、半日がかりの持病の医者通いが2回、老人センターのサークル活動が1回、そしてゴルフ場の月例コンペが1回である。ご丁寧に、土曜日の夜は、月一回の町内有志による飲み会とカラオケ会まであった。天候に恵まれ、中止や延期は全くなかった。7日目の昨日、久し振りにフリーとなり、買い物のお手伝いと庭や自宅周辺の清掃に精を出した。

 

 戦後間もない小学生の頃は、最近のこうした遊び半分の生活ではなく、厳しい状況下での晴耕雨読だった。晴れている日は、学校から帰ると農作業の手伝いをさせられた。家業が半農で、母がそれを担っていたためだ。そして、雨の日は米つきと藁草履(わらぞうり)づくりに精を出した。遊ぶ時間はごく限られていた。それでも、ご近所もみなそうで、いまでは楽しい思い出ばかりである。

クチナシの花

[エッセイ 684]

クチナシの花

 

 今年の母の日のお祝いにと、子供達からクチナシの花の鉢植えが届けられた。いまにも開きそうな白いつぼみが何十個もついている。その美しい容姿を、届けられたお宅の人に楽しんでもらおうと、手ぐすね引いているといった風情である。おそらく、数日のうちにも咲き始め、それ以降長い間楽しめるよう仕立てられているものと思われる。生産者の工夫と苦労が偲ばれる出来具合である。

 

 その花は、私たちの推測どおり、届いた翌々日あたりから次々と開花していった。以来、ベランダに飾ってある鉢植えの花に、朝一番で声をかけるのを楽しみにしている。すでに二週間が過ぎたというのに、最盛期はまだまだこれからといった状況である。ただ、個々の花は2~3日で変色しだし急速に衰退していく。まさに花の命は短いということを毎日立証して見せているようだ。

 

 この白いクチナシの花は、西洋では「天使が地上に降りて来た花」として珍重されているそうだ。花言葉は、「喜びを運ぶ」、「優雅」、そして「とても幸せ」とされている。なにか、ロマンス映画の名場面を想像させてくれるようなフレーズである。そんな幸せをイメージしてのことだろうか、アメリカには、ダンスパーティーでその花束を男性から女性に贈られる習慣があるそうだ。

 

 このクチナシの花は、香りもまた素晴らしい。フローラルな甘い香りが特徴で、「三大香木」の一つとして、春のジンチョウゲ、秋のキンモクセイとともに「初夏のクチナシ」として親しまれてきた。その商品をネットで検索してみたら、多種多様な広告が、百花繚乱のごとく次から次へと現われてきた。

 

 クチナシの木はアカネ科クチナシ属の常緑低木である。東アジアが原産とされている。日本では、6~7月ごろ開花する。花が終わるとやがて実が成り、それが熟すと種が実る。普通なら、熟した果実の口が開いて種が出てくる。ところが、この木は果実の口が開かないままとなるので「クチナシ」というようになったそうだ。どうやって口を開け、種が出てくるのだろう。

 

 口を固く閉ざしたクチナシの実から種を取り出すとしたら、道具を使って人の手で実を砕くしかないようだ。書籍などでは、それに代えて繁殖には株分けや挿し木といった方法が一般的だという。では、自然の繁殖はどうなっているのだろう。あまりよくわからないが、果実が熟して地上に落ちれば、いずれは腐蝕して種は露出し発芽のチャンスが訪れるのではなかろうか。

 

 いままで、母の日の贈り物といえばカーネーションの花束と思い込んでいて、こんな素晴らしいものがあるとはまったく知らなかった。いただいた鉢植えは、いままでの二週間はもとより、これからも当分の間はその優雅な姿と清楚な香りを楽しませてくれそうである。そして、来年も、再来年も、である。

                      (2024年5月27日 藤原吉弘)

バラの季節

[風を感じ、ときを想う日記](1258)5/17

バラの季節

 

 この季節、どこへ行ってもバラの美しい花を見ることができる。バラは、ボタンとともに花の王様といわれている。美しい形をした花びらが幾重にも重なって、花全体の姿を形づくっている。胸に花を付けるとすれば、やはりバラに勝るものはないだろう。外見の姿だけでない。香りもまた素晴らしい。人工芳香剤の香りだって、いかにしたらバラを越えられるかが課題となるはずである。

 

 そのバラの、花については申し分ないが、花の付いている本体部分についてはあまり褒められたものはない。木?なのか蔓?なのかもよくわからない。花のないときは、鑑賞に値する美しさはどこにも見当たらない。逆に、トゲがあって触ることさえできない。バラとは、イバラ(茨)が訛ったものだという説さえある。ただ一つ、利点があるとすればアーチ状に整形できることくらいだ。

 

 バラは、年2回私たちを楽しませてくれる。5~6月の今の時期、そして10~11月の秋である。ただ、初夏の花は美しいが、秋のそれはどこか麗しさに欠けるきらいがある。傷があったり、少し萎れかかったように見えたり、色がいまひとつパッとしなかったりと、花の王さまにしては華やかさに欠ける。もともと、年2回咲かせようというところに無理があるのかもしれない。

 

 バラは繁栄と愛の象徴といわれている。せめて、この時期だけでも、皐月の青空に向かって、その姿を艶やかにひけらかしてほしいものだ。

”噴霧機”による植木の消毒

[風を感じ、ときを想う日記](1257)5/11

“噴霧機”による植木の消毒

 

 先週、このブログに、葉っぱがたくさん落ちて、その始末が大変だという話を書いた。常緑樹の葉っぱが、新旧交代期を迎えているのだ。置き換えると、落葉が多いということは、新緑がどんどん成長しているという証でもある。その新緑に、“待ってました”とばかりに取り付くのが害虫たちである。

 

 わが家で一番気を許せないのが、モッコクの葉っぱに巣くうハマキムシという虫である。新しい葉っぱを丸めるようにして巣籠る。巣の中では、ウジ虫が新葉から養分を吸い取りながら成長していく。成長した幼虫は蛾に大変身してそこから巣立っていく。あとには、丸められた茶色い枯れ葉が残るだけだ。新しく芽生えた葉っぱのほとんどは、このようにして醜い姿をさらすことになる。

 

 こうした被害を未然に食い止めるには、葉っぱがまだ幼いうちに消毒をして虫のとりつくのを防ぐしかない。先週、古い噴霧機を引っ張り出し、試運転をしてみた。電池が切れていたらしく動かない。新しいのに取り替えて再チャレンジしてみたがだめだった。どうやら、機器そのものがだめになってしまったらしい。

 

 ホームセンターで新しい噴霧機を買ってきて、やっと本格的な作業に取りかかった。ところが、ノズルから吹き出してきたのは霧ではなく、ぼてぼての水滴だった。本体をよく確かめてみると、「除草剤専用」と書いてあった。いまさら機器の交換は無理なので、とにかく“噴霧機”として消毒を済ませることにした。

バッテリーの買い換え

[風を感じ、ときを想う日記](1256)5/7

バッテリーの買い換え

 

 テレビを見ていたら、車のバッテリーが上がって動けなくなり、JAFに助けてもらったという話を伝えていた。たしかに、自宅ならまだしも、山の中などで動けなくなったらどうしようもない。私自身も、かつてゴルフの練習場で動かなくなったことがある。その時は、そこの従業員にちょっとだけ充電してもらい、その足で自動車用品店に出向いてバッテリーを交換してもらった。

 

 あの番組を見ていて、ハッ!と気がつきすぐ記録を調べてみた。前回の交換から3年半が過ぎていた。走行距離こそ短いが、置いておくだけでも劣化は確実に進行する。ぼつぼつ交換時かもしれない。さっそく、例の自動車用品店に予約を入れることにした。作業は30分くらいで終わった。次の時まで運転を続けていられるかどうかわからないが、とりあえずはこれで一安心である。

 

 あのテレビ番組は、車のトラブルに的を絞った特集番組だったが、いわれてみればうっかりミスがいかに多いか改めて思い知れされた。とくに、給油をセルフで行うのが当たり前になって以来、簡単な、それでいて重大な事故につながりかねない点検ミスが多くなったようだ。かつては、スタンドのおにいさんが必ずやってくれていたタイヤの空気圧やエンジンオイルの点検などなど・・。

 

 そこで今回は、バッテリーのついでにエンジンオイルの交換もやってもらうことにした。実は、こちらも潮時をとっくに過ぎていた。

子どもの日の鯉のぼり

[風を感じ、ときを想う日記](1255)5/5

子どもの日の鯉のぼり

 

 今日の子供の日は、素晴らしいお天気に恵まれた。空は深い五月晴れ、頬を撫でる風はとことんやさしく、暑さも寒さも感じさせない。一方のわが家は、子供の日だからといっても、もう子供たちの姿は見あたらない。実の子供たちは中年を過ぎようとしているし、孫たちはとっくに成人式を終えてしまっている。家系内で子供の顔を見ようとすれば、ひ孫の誕生を待つしかないのが実態である。

 

 そんなわけで、せっかくの子供の日なのに、身内でそれをお祝いすることなどどこか遠い世界の話になってしまった。それでも、せっかくだから青空を泳ぐ鯉のぼりくらいはゆっくりと見物したいものだ。そうかといって、近所に子供は少なく、鯉のぼりを掲げているお宅もほとんど見当たらない。そうだ、白旗神社に行ってみよう。あそこなら、毎年たくさんの鯉のぼりを泳がせている!

 

 境内に足を踏み入れてみると、上空は鯉のぼりで、地上の境内は子供達でいっぱいだった。“義経公まつり”と銘打って子供たち相手の催し物をたくさんやっていたのだ。神社や市内の有志たちが、子供達のために頑張ってくれているようだ。そうだ、混雑の中をなにも遠くまで出かけなくても、近くで子供達を楽しませる方法はいくらでもあるのではないだろうか。

 

 子供たちの元気な姿を見ていると、こちらもおのずと元気が湧いてくる。まして、青空を泳ぐ鯉のぼりを仰ぎ見ていると、心にも体にも力が満ちあふれてくる。

サザンカの落葉

[風を感じ、ときを想う日記](1254)5/3

サザンカの落ち葉

 このところ、常緑樹の葉っぱが落ち始めている。いま一番活発なのはサザンカである。新芽と入れ替わるようにどんどん抜け落ちている。生垣にしているだけに木の本数は多く、それに比例して葉っぱの量も多い。道路側も敷地側も2~3日で落ち葉が山になる。見て見ぬふりができるのは2日間が限度である。

 

 昨日も、雨が上がったので早速掃除にとりかかった。ゴミ収集車が来るのに間に合わせようと思ったからだ。わが家のあたりの、「燃えるゴミ」の収集は午前8時50分ごろ、いつもほぼ予定時刻どおり現われる。今回も、朝ドラが終わるのを待ってすぐに清掃作業にとりかかった。

 

 このサザンカたち、年に2回ほど大量のゴミを出す。5月連休前後の新芽が出る頃と、年末から年始にかけての花の最盛期である。花びらの清掃作業については以前にも紹介したとおりである。花は結構長い間続き、散る花びらも相当な量に上る。その花を上廻るのがこの季節の落ち葉である。

 

 何かいいことを期待しようとすれば、それに見合う手間や対価が必要である。この場合は、平素の手入れとお祭りが終わった後の掃除である。艶やかな葉っぱがたくさん付き、花がたくさん咲いて美しくなれなるほど、後始末に手間がかかることになる。わが家の常緑樹たちはその辺をあまりわきまえていないのだろうか、自分たちの成果以上にご主人様への事後の要求が大きいようだ。