

[エッセイ 721]
めまい
昨日は昼食の後、ソファーにもたれて少しばかり昼寝をした。1時間くらい経って起き上がろうとしたら、頭がふらふらしてすぐには立ち上がれなかった。やっとの思いで起き上がり、トイレまで足を運んだが、あっちへぶつかり、こっちへつかまりと、自分でも信じられないような足取りになっていた。
“ふらふら”の実態は、自分の意志に反し体がその二倍くらいの巾で動くためだ。例えば、首を45度くらい右に曲げようとすると、首自体は勝手に90度くらい曲がってしまう。それだけではない、足も手もとにかく体全体が意識の倍くらいの範囲で動くのだ。その結果、意識と行動がバラバラになって、まともな行動ができなくなってしまったのだ。
おそらく、脳の血管か神経の一部に変調を来しているのだろう。ここはとにかく、医師に診てもらうことにしよう。かくして、町内の脳神経外科の、午後の診療開始時間にあわせて家を出た。自宅にいたときの体験から、動作は極力小さくゆっくり動くことにした。視線は前方3~4メートル先に固定し左右には首を向けない。歩幅は普段の半分くらいに抑えることにした。
歩く速さも普段の半分くらいのペースで、医院にむけて順調に足を運んでいった。しかし、途中に信号があり、青になった瞬間つい右側に視線を送ってしまった。クラッときた。すぐ地面に両手をつき、転ぶまでには至らなかった。次の信号でもまた同じ動作をしてしまい、またまためまいがしてしまった。今度は電柱に捕まり、一呼吸おいてなんとか渡りきれた。
脳神経外科のMRIの結果は異常なしということだった。先方は熱中症くらいに考えているようで、「水分はちゃんととっていますか」などと話しかけられた。そういえば、家を出る前に一度トイレで嘔吐していた。過去のゴルフ場での経験からも、熱中症と思えなくもなかった。まあ、とにかくこれでしばらく様子を見ることにした。自宅に帰ってからは少しずつ落ち着きを取り戻してきた。
ところで、この夜は中秋の名月のはずだった。暗くなって、雨戸を閉めようと二階に上がったとき、空は晴れ大きな満月がくっきりと浮かび上がっていた。さっそくカメラを持ち出し撮影に及んだ。しかし、なかなかピントが合わない。なんだか自身の意識や行動のように、せっかくの名月の写真もとうとう“おぼろげ”のレベルから抜け出せないままになってしまった。
去年までは、同じカメラで月のクレーターまでくっきりと写っていたのに今年はできない。振り返ってみると、加齢とともにすべての活動がそのようなお粗末な課程を繰り返している。「あの水たまりは、去年までは飛び越えられていたのに」、などといった過度な自信と行動は厳に慎まなければならないようだ。
(2026年9月26日 藤原吉弘)



[風を感じ、ときを想う日記](1439)9/21




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