ハスの花・満開


[風を感じ、ときを想う日記](1266)6/25

ハスの花・満開

 

 今日は、ハスの花の見物に出かけることにした。市南部の、桜小路公園内の池に咲くハスがお目当てである。池は同公園内に二つあり、第一蓮池ならびに第二蓮池と呼び分けられている。藤沢駅の南方、江の島との中間点に位置する。最寄り駅は、江ノ電の柳小路または小田急の本鵠沼である。

 

 今朝目覚めたら突然、「そうだ、今日あたりハスが見ごろを迎えているのではなかろうか」と思い立った。天気予報は雨となっていたが、実際の空は薄曇りだった。降られたらそれも仕方ない、と覚悟を決めて車で出かけることにした。

 

 現地に着いたら、二つある蓮池の、第一蓮池の方の白いハスの花が見ごろだった。池の表面が一面、真っ白に見えるほど咲きほこっていた。「舞姫蓮」と呼ばれる種類だそうだ。鴨のつがいまでも、浮き草の上でうれしそうに花を楽しんでいた。ここでは、なんと近所の知り合いにまで出会えた。

 

 もう一方の第二蓮池では、別種のピンクの花の咲く「誠蓮」という種類が植えられている。花はまだまばらで、こちらは7月中旬が見ごろだそうだ。この池の脇には古い大きな松が生えており、こちらの木のてっぺんではカラスが子育ての真っ最中だった。カラスに注意との張り紙まで掲示されていた。

 

 覚悟を決めていた雨には結局出会うことはなかった。今日は、雲間から漏れる薄日のもと、ハスたちの艶姿を存分に堪能することができた。

網戸の張り替え

[風を感じ、ときを想う日記](1265)6/24

網戸の張り替え

 

 梅雨入り宣言があったとたん、強烈に暑くなってきた。クーラーを使うのは当たり前としても、晴れて湿度の低いときは窓を開け放して外の風も入れたい。「そうだ、網戸をきれいにしておこう」。そう思って、雑巾で網をきれいにしていたら、バリッと破けてしまった。どうやら、紫外線で劣化が進んでいるようだ。一枚二枚ではない、南に向いているところはことごとくそうなっている。

 

 そんなわけで、ここ二日間は網戸の張り替えに挑戦することにした。さいわい、材料も道具も買い置きがある。あとはやる気と、蓄積した技術が生かせるかどうかというだけのことである。それでも、劣化が極端に進んでいるところは数年前に経験したばかりなので、今回もやり始めればあとは順調にいくはずである。

 

 汗をふきふき、次から次へと張り替えを進めた。こういうと、いたって順調だったように聞こえるが、やはり体力勝負の部分もあって“汗をふきふき”に加えて“休みやすみ”というフレーズも加えなければならなかった。結局、陽の当たる部分で劣化の進んでいるものについては、二日間をかけて全部の張り替えを終えることができた。仕上がりも、決して悪くはなかった。

 

 劣化が進んでいたのは網戸だけではなかった。体力は、残念ながらそれを遙かに上回っていた。それでも、今回の“挑戦”で、住環境は期待以上に若返りを実現できた。これからは、やることすべてが挑戦とならざるをえないようだ。

固定電話がつながらない

[風を感じ、ときを想う日記](1264)6/20

固定電話がつながらない

 

 近くのスーパーに商品の取り寄せを頼み、入荷しだい連絡をもらうことになっていた。ところが、何日たっても連絡がない。とうとうしびれを切らしてその店を訪ねてみた。商品はとっくに入荷していた。店員曰く、「何回かお電話させてもらったのですが、繋がらなかったのですよねえ」。なるほど、商品に添付された伝票には、わが家に電話した日時がいくつも記録されていた。

 

 一方、家内の携帯電話に不調があったので通信会社に相談したところ、固定電話であれこれ指示してもらうことになった。こちらの番号を伝えて先方からの連絡を待っていたが一向に架かってこない。携帯電話で先方にその旨を伝えると、「お宅には繋がらず、電話会社につながってしまうのですよねえ」ということだった。どうやら、発信はできるが受信はできない状態になっているようだ。

 

 そういえば、ここ半月あまり外部からはまったく電話がかかってきていなかった。ここで初めて、わが家の固定電話は、発信はできても受信はできない状態になっていることに気がついた。契約の電話会社にその旨を告げると、その状態をあれこれ聞かれた上で、「電話機のコンセントを抜いて、改めて差し込んでみてください」と指示された。問題は一発で解決した。

 

 先方から、固定電話に確認の電話が入った。しかし、その原因は何だったのか、なぜ直ったのか、いまもよく理解できないまま事件は遠ざかっていった。

定期健康診断と朝食

[風を感じ、ときを想う日記](1263)6/18

定期健康診断と朝食

 

 昨日、近所のクリニックで市主催の定期健康診断を受けた。内臓の内視鏡検査をやるわけではないが、血液検査や尿検査を行うので朝食は抜きで来てくださいといわれていた。普段、決まった時間に寝起きし、決まったときに食事をとっている者にとってこれはかなりきつい。おまけに朝一番ではなく、10時半スタートだったのでなおさらつらかった。

 

 この日、朝食にありつけたのは正午直前だった。当然、朝食と昼食を一体化したものとなった。朝食を抜くのもつらいが、起床してからクリニックへ出かけるまでの時間のつぶし方にも苦労した。やることはたくさんあるのに、寝起きの空腹のままでは、その気が起きないばかりか力も入らないのだ。

 

 このところ、そのクリニックでは患者が増えた。ご近所に高齢者が増えたこと、さらにはスタッフの世代交代で評判が上がったためと考えられる。以前なら、胃の内視鏡検査も含め朝一番で受けられたのに、それは暇になってから予定するという。朝食抜きももう一度体験しなければならないことになった。

 

 ちょっと贅沢な話かもしれないが、私にとって朝食を抜くことは結構つらいことである。時間まで寝ていれば済むという考え方ももちろんある。しかし、できれば生活のリズムは狂わせたくない。いつもの時間にすっきりとした気分で起き上がり、おいしく朝食をいただくことが健康の秘訣ではなかろうか。

マダケ(真竹)の竹の子

[エッセイ 685]

マダケ(真竹)の竹の子

 

 近所の知り合いからマダケ(真竹)の竹の子をいただいた。「足元に生えていたものを無造作に採ってきたので、あまり出来は良くないよ」などといって手渡されたものだ。先祖伝来の山林の一角に生えていたのだそうだ。なるほど、タケノコとはいっても、細長くて、お店で見かけるモウソウチク(孟宗竹)のそれとはまったく違う貧相な代物だった。こんなものが食べられるのだろうか。

 

 とにかく、自宅に持ち帰り家内に見せた。「調理しだいでは食べられるのではないの」といって、結構前向きな態度を見せてくれた。それならと、こちらもネットで調理のしかたなどを検索してみることにした。家内も、あれこれ知恵を絞っていたが、とにかく夕飯に間に合わせてみるといって調理にかかった。

 

 竹は子供のころから接していたはずなのに、この真竹についてまったく知らなかった。身の回りにある竹は、孟宗竹と笹竹くらい、竹の子として食べるのは孟宗竹だけと思い込んでいた。こんな竹があるとは、しかも「真竹」と呼ばれて、日本の原産らしいことなどうかつにもまったく知らなかった。

 

 この真竹の生えている面積は、かつては全国の竹の70%くらいを占めていた。ところが、1960年代に全国一斉に枯死し、50%くらいまで落ちたそうだ。竹は数十年に一度花を咲かせ、それを機にその薮全体が枯死するといわれている。ただ、この現象は孟宗竹のことで、それも全国一斉ではないようだ。真竹が全国一斉だったのは、それらが遺伝的にきわめて近い関係にあったためのようだ。

 

 真竹は、根元は細いのに長さは結構あるので、先端に向かって細くなる率は小さい。しかも先端までまっすぐ伸びている。さらには、伸縮率が小さく、温度や湿度による変化も少ない。しかも、強靭でありながら肉厚が薄く加工しやすいため、古来よりいろいろな物に利用されてきた。弓、梯子、籠、物干し、日用品、細工物、工芸品、物差し、そして土木工事用材にまで広く重用されてきた。

 

 この真竹は、日本が原産と推測され、本州以南に広く分布している。別名をニガタケ(苦竹)と呼ばれるくらいその竹の子にはえぐみがあって、あまり食用には向かないようだ。それでも、ネットには、煮物、炊き込みご飯、メンマなど多種多様なレシピが百花繚乱のごとく掲載されていた。

 

 その日の夕飯は、鶏肉を混ぜた竹の子ご飯と生揚げを添えた煮物だった。意外や意外、結構おいしくいただけた。ただ、竹の子の先っぽの部分は繊維がいっぱいで、歯に挟まって往生した。さらには、根元に近い部分は成長が進んで固くなっており、まさに竹を食べているに近い感触だった。それでも結構満足することができた。今回の出来事は、真竹の存在とその特性を知るにいい機会となった。

 

 また機会があれば、さらに新たなレシピに挑戦してみたい。

                      (2024年6月14日 藤原吉弘)

ハナショウブが見ごろ


[風を感じ、ときを想う日記](1262)6/11

ハナショウブが見ごろ

 例年なら梅雨に入っている頃だが、今日は朝から快晴でウグイスの声もよく響いている。郊外で花を愛でるには絶好のお天気である。おまけに、あの美しいハナショウブが見ごろを迎えている頃である。そんなことから、今年もまた、二宮町にある「せせらぎ公園」にハナショウブを見に行くことにした。

 

 快晴なので、熱くならないうちにと朝一番に家を出た。現地までは1時間とはかからなかった。まだ誰も来ていないだろうと思っていたが、すでに高齢の男性が二人、熱心にカメラを操作していた。公園維持のための作業員も二人いて、だんだん賑やかになるだろうことを予感させていた。

 

 花は、見ごろにはちょっと早いかなと思っていたが、逆にそれをやや過ぎている印象さえ受けた。今年の花は例年より4~5日早かったようだ。サクラ見物に代表されるように、花見物のタイミングはきわめて難しい。それでも、特別がっかりすることはないし、うまくいったらいったでその喜びは倍加する。

 

 ここは、通称谷戸といわれているように、三方を山に囲まれた小さな谷になっている。山は、大きな雑木に覆われて緑一色である。そこを通り抜けるそよ風はことのほか気持がいい。絶頂期を2~3日過ぎているとはいえ、花たちはまだ頂点に留まっており、周辺のアジサイと共に、訪れる私たちを存分に楽しませてくれた。このぶんなら、来年もさらに美しい姿が期待できそうだ。

アジサイが見ごろ

風を感じ、ときを想う日記(1261)6/7

アジサイが見ごろ

 

 このところ、どこを歩いてもアジサイ(紫陽花)だらけである。公園はもちろん、どのお宅の庭にも、ちょっとした空き地にも、あの七色の花が咲いている。近年では、ガクアジサイも加わって、色だけでなく形もバラエティー豊かになってきた。まさに、晴れて良し、雨に濡れて良しである。

 

 かつては、町内を流れる小川の両岸にもたくさん植えられていた。川岸の、横幅50センチくらいのグレーンベルトは、格好な花壇として有志が熱心に手入れをしていた。しかし、住人の高齢化と共に見捨てられるようになり、とうとうコンクリートで固められてしまった。いまは、一部を除いて見る影もない。

 

 むかしは、アジサイの名所といえば、箱根登山鉄道の沿線や鎌倉の明月院、あるいは長谷寺が有名で、見物のためにわざわざ電車に乗って出かけたものである。しかし、いまでは、川の土手など細長い空き地には、たいていアジサイが植えられている。あの花の列は、いまではごくありふれた光景になった。

 

 最近は、ガクアジサイが幅を利かせている。確かに写真にしても見栄えがする。あれは、アジサイの新種だろうと思っていたらその逆で、ガクアジサイが日本産の原種なのだそうだ。もう一つ、あの茎は“木”か“草”かと疑問に思うようになり調べてみたら、“落葉広葉樹の低木”であることがわかった。私のアジサイについての知識は、“チコチャン”に叱られそうなことばかりである。