一豊と龍馬

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[エッセイ 192](新作)
一豊と龍馬
 
 誰がいいだしたか、日本三大がっかり名所というランキングがある。札幌の時計台と高知のはりまや橋、これには誰も異存のないところであるがあとの一つは定かでない。一、二があって三、四がないというところだろうか。

 その、はりまや橋のそばを二度ほどバスで通りかかったが、みんなきょろきょろしながら見つけるのに苦労していた。しかし、だからといって高知にはがっかりしたということではもちろんない。

 高知は、山内一豊によって拓かれ、その統治は子孫によって明治維新まで続いた。その維新をリードしたのは、この土地が生んだ風雲児・坂本龍馬である。

 山内一豊は、土佐藩20万石の初代藩主である。彼は、彼自身より「山内一豊の妻」の夫としてのほうが有名である。彼が大大名にまで出世できたのは、ひとえに妻・千代(後の見性院)の内助の功があってのことといわれている。

 一豊は、1545年尾張で生まれた。1568年、織田信長の配下、羽柴秀吉のもとで仕えることになる。妻・千代と結婚したのはその2~3年後と見られている。秀吉の下で頭角をあらわし、秀吉の死後、関が原の合戦では徳川家康につく。

 1601年、徳川幕府樹立の功により、一豊は土佐一国を与えられる。以降幕末まで、山内家は16代にわたってこの土佐藩に君臨する。2006年のNHK大河ドラマにもなった司馬遼太郎の小説「功名が辻」は、その千代と一豊の生涯を描いたものである。仲間由紀恵上川隆也のすがすがしい演技は、いまも強く印象に残っている。

 坂本龍馬は、土佐が生んだ幕末の志士である。その龍馬の名前と肖像は高知県内に溢れ、その名はついに空港にまでつけられた。J・F・K・空港など、外国ではよく耳にするが、「高知龍馬空港」というのは日本では初めてである。

 彼の志士としての活躍は、土佐藩からの脱藩で始まる。1862年、彼が28歳のときである。彼は脱藩後、長州、江戸、薩摩と巡りそこで西郷隆盛と出会う。龍馬は、隆盛の援助を受けて日本初の貿易会社「亀山社中」を長崎で立ち上げる。そのかたわら、彼は薩長同盟に奔走し1866年、その成立にこぎつける。

 1867年10月、ついに幕府による朝廷への大政奉還がなされる。その直後の11月15日、彼は京の近江屋で刺客に襲われ絶命する。彼が、33回目の誕生日を迎えたちょうどその日であった。

 高知には、高知城や桂浜などたくさんの名所旧跡がある。よさこい祭りや皿鉢料理など、楽しい催しものや美味しい料理もてんこもりである。これらは、長い歴史と人々の生きざまのうえに成り立っている。それらを少しでも理解できれば、楽しさもいっそう味わい深いものになるはずである。
(2007年12月10日)

写真は、桂浜