地獄を見てきた元大関の優勝

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[エッセイ 563]

地獄を見てきた元大関の優勝

 

 かつての大関照ノ富士が、東前頭17枚目に返り咲いた。その、谷底からの見事な復活ぶりに目を見張った。それでも、よく復帰してきたなあ、という程度の感想しかもてなかった。なんせ、幕内の番付表には、元大関の名前が史上最多の4人も並んでいたのだから。他の3人とは、琴奨菊、高安、そして栃ノ心である。みな下位に甘んじているが、その中でも彼は幕尻の最下位だった。

 

 それが、5日目の1敗を挟んで白星を重ね、9日目には勝ち越しを決めてしまった。そして、12日目が終わってみると、この日負けた2敗の白鵬を尻目に、1敗のままついに朝乃山とともに優勝戦線のトップに立った。翌13日目には、その朝乃山にも勝って単独トップに躍り出た。

 

 この朝乃山との取り組みのとき、新進気鋭の新大関より照ノ富士への応援の方がはるかに多かったように思う。コロナのせいで観客は大声を出すことを禁じられ、拍手しか許されていなかったが、場内の雰囲気は明らかに彼を押していた。富山県出身の期待の日本人大関より、外国出身の幕尻力士に応援が集まったのだ。私自身も、気持ちは圧倒的に照ノ富士に傾いていた。

 

 14日目に正代に負けて一時相星になったが、同門の照強の援護射撃によって再びトップに立った。千秋楽では、強敵御嶽海を堂々と下して13勝目をあげた。今年1月場所の徳勝龍に次ぐ、史上3人目の幕尻優勝である。彼にとっては5年目、2回目の幕の内優勝である。師匠の元横綱旭富士から優勝旗が手渡された。師匠も、照ノ富士自信も感慨ひとしおであったはずだ。

 

 2019年3月場所、4場所全休後に土俵に復帰したとき、彼のランキングは西序二段の48枚目まで落ちていた。ここからV字復活劇が始まった。以降、5場所を7勝0敗2回と6勝1敗3回で通過し、2020年の1月場所では西十両13枚目まで復帰した。ここも13勝2敗で通過し、2020年3月場所は東十両3枚目を10勝5敗で通過、今場所を幕尻の東前頭17枚目で迎えたわけである。

 

 2017年11場所での関脇への降格に始まった陥落劇は、2018年7月場所からの4場所全休という谷底へとつながった。彼は、両膝のほか、腎臓や肝臓にも疾患を抱え、膝は3度も手術をしたが完全回復にはほど遠いという。身体面の損傷を修復しつつ、その機能を維持、向上させていくのは並大抵の努力ではなかったはずだ。精神的にも、地獄の彷徨からよくぞ這い上がってきたものである。

 

 彼は何度も辞めようと思ったという。その都度師匠や女将さんたちに支えられたという。そして、地獄を見てきた元大関は見事に復活を遂げた。彼は、両膝や内蔵の疾患と上手につきあいながら、さらに上を目指すはずである。人生に浮き沈みはつきもの、彼の復活にみんながどれだけ勇気づけられたことだろう。

                       (2020年8月4日 藤原吉弘)