箱根駅伝

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[エッセイ 155](新作)
箱根駅伝
 
 自宅のテレビ画面は、平塚中継所での復路のタスキリレーを映し出していた。孫2人を含む家族6人は、お目当ての観戦ポイントへと急いだ。戸塚中継所との中間地点となる家電工場の前は、テレビカメラも陣取る絶好の応援席である。沿道には各大学の幟旗が林立し、最前列はすでに人垣で埋めつくされていた。

 広報車が選手の接近を予告してまわる。やがて、白バイに先導された順天堂大学の選手が視界に入ってきた。新聞社の、赤い小旗を手にした群集が揺れる。選手がみるみる接近し、あっという間に通り過ぎていった。選手の紅潮した顔、荒い息遣いは、風となって興奮の渦を残していった。

 今年の箱根駅伝は、前日の往路で2つの感動的なドラマを生んだ。スタート直後の1区で、東海大学佐藤悠基選手が飛び出し、2位に4分1秒の大差をつけて第2走者につないだ。それをひっくり返したのが最終5区、順天堂大学今井正人選手である。5位でタスキを受けた彼は、4人をごぼう抜きにし、首位東海大学との4分9秒の差をひっくり返して往路優勝を勝ち取った。

 佐藤悠基選手と今井正人選手の記録はいずれも区間新記録であり、結局この2人がそろって最優秀選手に選ばれた。総合成績は、優勝順天堂大学、2位日本大学、そして3位が東海大学であった。来年のシード権が絡む注目の10位には亜細亜大学が滑り込んだ。

 箱根駅伝東京箱根間往復大学駅伝競走)は、日本人初のオリンピックマラソン選手であった金栗四三氏の提唱によって、1920年(大正9年)に産声を上げた。最初から、東京・箱根間片道110キロ弱を2日間かけて往復した。第1回の参加校は、早稲田、慶応、明治、それに東京高等師範の4校であった。以来85年、戦中戦後3回の中断があったので今回で83回目となる。

 箱根駅伝を原点とする日本の駅伝は、マラソン本来の醍醐味のほか、作戦とチームワークの妙がそれに加わる。選手一人ひとりの責任もきわめて重い。

 箱根駅伝では、最高地点が標高875メートルにも達し、山上り・山下りの厳しい試練が待ち受けている。シード権争いという翌年の参加資格をかけた戦いもまた興味深い。沿道の風景は、東京、横浜の高層ビル街をはじめ、湘南の海、東海道の松並木、そして天下の名勝・箱根ときわめて変化に富んでいる。

 競技の面白さはテレビで俯瞰せざるをえないが、選手の生の姿やその場の雰囲気は現地でしか味わえない。沿道の観衆は毎年100万人に達するというが、観衆が選手を奮い立たせ、選手が観衆を酔わせているようにみえる。

 箱根駅伝は、早くから正月の風物詩として定着してきた。わが家でも、沿道に出かけて一時の興奮に浸るのが正月の恒例行事になろうとしている。
(2007年1月5日)

写真は、トップを快走中の順天堂大学の8区・板倉具視選手(区間4位)