虫の声

[エッセイ 106]
虫の声

 窓から差し込む月の光が、あまりにも透きとおって見えたので、そっと部屋の明かりを消してみた。すると今度はテレビの音が、世俗に汚れた雑音に思われてきた。静寂を取り戻したリビングルームは、平安朝の宮殿へと早替わりし、庭先では虫たちが静かに雅楽を奏でていた。こんなことなら、ススキの一本も生けておけばよかった。

 リーリーリーリーと涼しげな声、どうやらエンマコウロギの独唱が始まったようだ。耳を澄ますと、庭や家の周りから同じような鳴き声が聞こえてくる。試しにと、近所を流れる小川のそばまで出かけてみると、ここではチンチロチンチロの大合唱がくりひろげられていた。そういえば、文部省唱歌の「虫の声」の最初に出てくるのがこのマツムシである。この歌では、他に、スズムシのリンリンリンリン、コオロギのキリキリキリキリ、クツワムシのガチャガチャガチャガチャ、そしてウマオイのチョンチョンチョンチョンスイッチョンなどが面白い鳴き声として歌われている。

 こんなきれいな声で鳴く昆虫たち、いずれも「直翅目(ちょくしもく)」という種類に分類されるバッタ、キリギリス、コオロギなどの仲間である。かれらの多くが、秋になると繁殖の時期を迎える。オスたちは、メスを呼んだり縄張りをアピールするために、羽の付け根を擦り合わせて音を出す。もちろん、今回の夜の主役はコオロギの仲間たちである。

 キリギリスとコオロギはよく似てはいるが、違いも比較的はっきりしている。キリギリスはたいてい緑色で、胴体は上下に縦長である。一方のコオロギは、茶色で平べったい胴体をしている。バッタやキリギリスは昼間鳴いているので緑色になり、コオロギは日陰に隠れて夜を待って鳴くので茶色になったのかもしれない。まるで植物の、葉緑素のことをいっているようである。両者は、羽の重なり方にもはっきりとした違いがある。「左キリギリスに右コウロギ」。羽の左右どちらが上にあるかという区別である。これは、海の底にいる平らな魚を、「左ヒラメに右カレイ」といって顔の向きで識別するのと似ている。

 日本では、万葉の昔から虫の鳴き声を愛でてきた。鎌倉時代になると、それを独占したいと思う人が増え、競って虫狩りにまで出かけるようになった。時代は下って、江戸も元禄のころになると、虫売りが商売として成り立つようになった。当初は、捕まえてきたものを店先で売っていたが、とうとう養殖まで始めたという。ごく普通の庶民が、お金を出してでも虫の音を楽しもうとする風潮が定着しはじめたはこのころからであろう。

 たかが虫、されど虫。日本人の、風流の原点を見た思いである。
(2005年10月10日)