時計

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[エッセイ 497]
時計

 腕時計を買い換えた。30年ぶりのことだ。まだ正確に動いているが、リューズの部分がすり減って、細い心棒だけになってしまった。それでも、時計本体に不都合はなく、時刻合わせなどの操作にもなんとか対応できる。しかし、細く尖った状態なのでケガでもしたらつまらない。そんなことから、思い切って買い換えることにした。それにしても、なんと長い間使い込んだものだ。

 新しいものは数えて五代目となる。今更そんな高級なものは必要ない。とにかく、デザインや機能、それに予算など、納得のいく範囲で購入することにした。あまり気にしていなかったが、決めた後でよくみると、それはソーラー時計だった。これなら電池交換も不要だ、なんの気遣いもなく使えるといっそう気をよくした。ところが、取説をよく読むと、充電こそ一番の留意点だと書かれていた。

 とくに使い初め、そして使いだしてからも、月に1回くらいは本格的な充電が必要だという。おまけに、充電不足でいったん止まってしまうと、動き出すまでが大変だとも書かれていた。とにかく、こまめに充電するしかなさそうだ。なんだか面倒なものを買ってしまったようだ。ちょうどお天気が回復してきたので、布団と一緒にたっぷりとお日様に当てることにした。

 ところで、現役を引退したいま、時間にそれだけこだわる必要があるだろうか。あるとしたら、お気に入りのテレビ番組が始まる時刻くらいかもしれない。もちろん、会合に出席するときや外出するときはそれなりの気遣いが必要である。しかし、そのほかの時は、5分や10分、場合によっては30分くらいずれても、日常生活にたいした差し障りはないのではないか。

 子供のころ、畑仕事を手伝っていると、一定時刻にサイレンが時を知らせてくれた。それで、仕事の区切りをつけた。自宅で机に向かっていると、表通りで路線バスの音がした。「あれ、いつの間にこんなに勉強したのだろう」と背伸びをした。そして、海で遊んでいると、沖から定期船がやってきた。「あっ、もう海から上がる時間だ」といって家に帰った。当時の生活はそれで十分だった。

 わが家には、いま、あらゆる所に時計が置かれている。玄関、居間、台所、洗面所、トイレそして寝室と。それに加えてこの腕時計だ。はたして、そんなにシビアな時間管理が必要だろうか。たしかに、乗り物を利用するときや、待ち合わせのときはそれを欠かすことはできない。それでも、駅はもちろん公共施設には必ず時計があり、時間を知る手段に不自由はないはずだ。

 数年前、思い切って携帯電話をやめてみた。当初、なんとなく不安だった。人に迷惑をかけているかもしれないと心配もした。ところが、慣れてしまったいま、なんの不自由も感じない。“時計”も、もう一度見直してみてはどうだろう。
(2018年10月11日)