旧吉田茂邸

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[エッセイ 467]
吉田茂

 大磯の吉田茂邸のことは子供のころから知っていた。長じて、同じ湘南地方に住むようになってからも、その存在を意識する機会はたびたびあった。それでも、なぜかそこに行ってみようという気にはなれなかった。先日、その近所に出かける機会があり、その折り、火事で焼けた邸宅が再建されたというニュースを思い出した。そんなことから、話の種のつもりで立ち寄ってみることにした。

 旧吉田茂邸は、国道1号線を挟んで、向かい側の「旧三井別邸地区」とともに、「旧吉田茂邸地区」として県立大磯城山公園を形成している。公園全体の広さは10ヘクタール弱、うち旧三井地区が7.0ヘクタール、旧吉田地区が2.9ヘクタールだそうだ。再建なった旧吉田茂邸の建物は大磯町の所有で、「大磯町郷土資料館別館」と位置づけられている。その延べ床面積は743屐複横横議據砲世修Δ澄

 この旧吉田茂邸は、吉田茂の養父吉田健三が、1884年にこの地に別荘を建てたことに始まる。吉田茂は、1944年、米軍の空襲を避けて東京平河町の自宅から大磯に転居した。彼は、1945年に外務大臣に就任したのを機に、麻布の外相公邸に住むようになる。1946年、彼はついに総理大臣となる。それを機に、平日は首相公邸に、休日は大磯の自宅という生活となる。戸塚周辺にワンマン道路が建設されたのはこのころのことである。

 1954年、彼は総理大臣を辞任して大磯に戻る。1963年には政界を引退、1967年にこの邸宅で帰らぬ人となった。1969年、ここは西武鉄道に売却され、大磯プリンスホテルの別館となる。2006年、神奈川県の管理となり大磯城山公園の拡大部分となる。2009年、火災により本邸を消失、2009年には神奈川県が用地を購入する。2017年、大磯町が主要建物を再建する。

 ざっとこんな経緯をたどってきた旧吉田茂邸であるが、建物が再建なったいまも、随所に吉田茂の足跡が、そして日本の戦後史が刻まれている。しかし、吉田茂自身に歴史的な価値はあっても、この真新しい建物に遺跡としての価値を見いだすことはできなかった。元の建物は、吉田五十八という有名な建築家の設計により、京都の宮大工の手で建てられたというが、この建替えられた建物からは古い神社仏閣のような感動は伝わっては来ない。

 子供のころ、先生から尊敬する人物の名前を書けといわれて、なにもわからず「吉田茂」と書いた記憶がある。戦争によってどん底まで落ち込んだ日本を引き上げ、成長軌道に乗せた功績は賞賛してもしきれるものではない。その一方、ワンマンの負のイメージと、どうしてこんな豪華な邸宅が必要だったのだろうという疑問が私を大磯から遠ざけていたように思う。

 その不信感にも似た凝りは、今回の訪問でも溶け出すことはなかった。
(2017年6月27日)