[エッセイ 575]
見学を楽しみにしていた比叡山延暦寺の根本中堂は、大きな覆いにすっぽりと覆われて美しい外観を見ることはできなかった。織田信長の焼き討ちにあったこのお堂は、1641年に三代将軍徳川家光の命によって再建された。今度が7回目の大改修で、工期は2015年~2025年の10年間の予定だそうだ。
延暦寺は、開祖・最澄によって、788年に一乗止観院という草庵を建てたのが始まりといわれている。延暦寺は天台宗の総本山で、本尊は薬師如来である。標高848メートルの比叡山全域1,700ヘクタールが境内で、標高650~700メートル地点に100ほどの堂塔が配置されている。その総本堂に当たるのが根本中堂である。
根本中堂の一番奥には、最澄が刻んだと伝えられる本尊の薬師瑠璃光如来が秘仏として安置されている。供えられた灯火は「不滅の法灯」と呼ばれ、1,200年間一度も消えることなく灯り続けている。ただ、信長の焼き討ちのとき一度途絶えており、実際には山形県の立石寺から分灯を受けたものだそうだ。
再建された現存の根本中堂は、1953年に国宝に、1994年にはユネスコ世界文化遺産「古都京都の文化財」として登録されている。本堂の「大名柱」と呼ばれる76本の大きなケヤキの柱は、各大名が寄進したものである。天井は、草花の絵200枚ほどで埋められ、「百花の図」と呼ばれている。
日本の仏教は、奈良仏教を中心に発展し、平安遷都後は平安仏教が大きく花開いた。その中心になったのが比叡山延暦寺であり、もう一方が高野山金剛峯寺であろう。延暦寺では、最澄が多くの優秀な弟子を育てた。後年、新しい宗派を起こしたいわゆる開祖だけでも6名にも上る。融通念仏宗の良忍、浄土宗の法然、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、浄土真宗の親鸞、そして日蓮宗の日蓮である。
その延暦寺が、なぜ織田信長の焼き討ちに遭うことになったのだろう。最澄が初めて草庵を開いた788年から783年が経った1571年のことである。この間に何があったのだろう。境内には比叡山全域に100を超える堂塔がおかれた。4,000人もの僧兵が常駐する一大軍事拠点にもなっていた。遊興施設には女性や子供も多数居住し、軍備の整った独立国の様相さえ呈していたという。
その力をもって、寺院同士の勢力争いや、朝廷などへの強訴も日常的に行われていた。白河法皇も、「加茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたそうだ。こうした仏教の本来のあり方とはかけ離れた動きが、織田信長の「焼き討ち」と豊臣秀吉の「刀狩り」に繋がったのではなかろうか。
根本中堂は、本尊と参拝者の目の位置が同じ高さに、その中間の僧侶の位置は3メートルも下げて作られている。最澄の思いがここに収斂されているようだ。もう一度よく勉強し、改修なった暁には今度はマスクなしで訪ねてみたいものだ。
(2020年12月8日 藤原吉弘)
写真1:根本中堂(本堂・改修中)
写真2:文殊楼(本堂への正門)
写真3:鐘楼
写真4:東塔