大内宿

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[エッセイ 463]
大内宿

 福島県内をめぐる花見ツアーの最終盤は、会津南部の大内宿への立ち寄りだった。ただ、この宿場町については、時代劇映画のセットのようだという知識くらいしか持ち合わせていなかった。

 白茶けた広い通りが、緩やかな上り坂となって、正面の山に向かってまっすぐと伸びている。車道と歩道は両側とも側溝で区切られ、その二筋にはきれいな水が流れている。住民は、それを大きな柄杓で汲み上げ、自宅前の通りに撒いている。舗装されていないので、土埃がひどいためのようだ。

 通りの両側には、茅葺きの民家が50軒近く整然と並んでいる。いずれの家でもなにがしかの商いをやっているが、みな小規模で、みやげものを縁側に並べている程度である。お店には暖簾などが下げられているが、近代的な看板はもちろん掲げられていない。近代的といえば、通りに電柱は見当たらない。街の風景はまさに江戸時代の宿場町そのものである。

 ところで、この宿場町は、会津若松から今市経由で江戸に向かう3番目の宿駅として1643年に開かれた。会津藩は、1644年から1680年までの21回、この街道を参勤交代のために使ったという。ただ、この道はあくまでも脇街道で正規の道ではなかった。一方、江戸幕府は1680年以降、参勤交代の脇街道利用を厳しく取り締まるようになった。そのため、これ以降は白河経由で奥州街道を上る正規ルートに変更されたという。

 会津西街道、別名下野街道と呼ばれていたこの道は、1882年にルートを一部変更して日光街道と呼ばれるようになった。街道から外れた大内宿はしだいにすたれていった。1886年、宿場内の旧街道中央を流れていた用水路を二つに分けて両側に移し、道幅を広げたが賑わいは戻ってこなかった。

 1969年、この宿場町のことが朝日新聞に紹介され、にわかに脚光を浴びることとなった。1970年、NHK大河ドラマ「もみの木は残った」のロケ地となり、1981年には重要伝統的建築物保存地区に指定された。妻籠宿、奈良井宿に続いて全国で3番目だという。そして、1989年には無電柱化とアスファルトの撤去を成しとげ、昔の姿を完全に復元させた。

 ここを訪れた観光客は、1985年には2万人程度だったが、以降急速に伸び、2007年にはついに100万人を突破した。あの東日本大震災のあおりを受けて大幅に落ち込んだが、ここにきて順調に回復しているという。

 それにしても、無舗装化、無電柱化など、観光資源のためとはいえよくぞそこまで踏み切ったものだ。水まき一つとっても維持管理のご苦労は大変なことだと思う。あらためて、住民の皆さんのご健闘を称え、町の繁栄をお祈りしたい。
(2017年5月13日)