鶴ヶ城

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[エッセイ 462]
鶴ヶ城

 福島県内をめぐる花見ツアーに参加して、数十年ぶりに会津若松鶴ヶ城を訪れた。しかし、花の名所であるはずの場内の桜は、一分か二分咲き程度で見るべきものはほとんどなかった。仕方なく、城そのものに興味を集中させることとし、天守閣の最上階を目指した。最初は、5階まで徒歩で上らなければならないと聞いて少しばかり腰が引けていた。それでも、4階までは郷土資料館になっており、興味をもって見ているうちにいつの間にか展望台にたどりついていた。

 正式には若松城と呼ばれるこの城は、1384年に葦名直盛が築いた東黒川館が始まりだといわれている。明治元年(1868年)の戊辰戦争では、約1ヵ月におよぶ激しい攻防戦に耐えた名城である。このときの様子は、2013年に放送されたNHK大河ドラマ「八重の桜」の主舞台ともなったので知る人も多いはずだ。前線から飯盛山まで潰走してきた白虎隊20名が、白煙が上がるのを見てすでに落城したと思い自刃して19名が果てたあの城でもある。

 しかし、戦いに耐えたとはいえ、砲撃で屋根は崩れ、壁は穴だらけになっていた。明治の世は落ち着きを取り戻し、政治体制も一変してしまったことから、城は無用の長物となった。明治7年(1874年)ついに取り壊されてしまった。それでも、市民の熱い希望を受けて、昭和40年(1965年)鉄筋コンクリート造りの名城が再び会津の地に姿を現わすこととなった。さらには、平成23年(2011年)屋根を赤瓦に葺き替え、幕末当時の姿に復元されたという。

 この地には、昭和30年代に初めて訪れた。まだ城はなく、飯盛山でトコロテンをすすりながら白虎隊を偲んだ。昭和50年代の仙台在勤時代に、仕事はもとより家族連れでも訪れ、白亜の雄姿を仰ぎ見た記憶がある。それにしても、この町はもとよりこの城も当時とどこか印象が違っていた。市の入り口には、伝統ある城下町には不釣り合いな高さ57メートルにも及ぶ白い観音像が立っている。そして、あの鶴ヶ城の屋根は赤く染まり、洋風漂う城に大変身していた。

 この赤い屋根、元の姿に戻っただけだそうだ。それも、それなりの理由があってのことだという。この城は江戸時代初期までは黒い瓦で葺かれていた。しかし、浸みこんだ水分が凍りつき、たびたび割れていたという。そこで、江戸中期になって凍み割れに強い赤瓦に葺き替えられたのだそうだ。昭和40年に再建されときは黒瓦で葺かれていたが、元の姿がいいということで平成23年に赤瓦に葺き替えられたという。全国で唯一の赤瓦のお城だそうだ。

 赤瓦は、焼く前に酸化鉄入りの釉薬をかけたものだ。凍み割れにとくに強いという。日本の城のイメージは白い漆喰に黒い瓦と定まっているが、強度的にいいのであれば、洋風漂う鶴が城もお洒落と考えるほかないのかもしれない。
(2017年5月2日)