吉野山の花見

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[エッセイ 368]
吉野山の花見

 歳のせいだろうか、最近は国内旅行でもパックツアーを利用することが多い。しかし、吉野山の花見となると、それではリスクが大きすぎる。下手をすると、傘を差しながらの葉ざくら見物、などということになりかねない。どうしても、開花状況とお天気を見極めて、ぎりぎりのところで決断する必要がある。

 大和路の2日目、朝食もそこそこに橿原神宮近くのホテルを出た。途中雨まで降り出したが、8時半には吉野駅に着いた。駅前の、右手にはロープウェイの駅が、広場奥には何台ものバスが待機していた。私たちは、迷わず中千本行きのバスに乗った。途中から雨は止み、空はどんどん明るくなっていった。

 中千本で、奥千本に行きのマイクロバスに乗り換えた。補助席まで客を詰め込んだバスは、細い道を喘ぎながら登って行った。標高800メートル超、どん詰まりの奥千本は義経西行のゆかりの地だった。雪のかけらが残っているのにびっくりしながら、今度は徒歩でゆっくりと山を下っていった。

 一番のビューポイントは、上千本の「花矢倉展望台」だった。眼下に、薄いピンクに彩られた森が広がっている。左手下の尾根筋には人家が連なり、そのはるか先端にひときわ大きな建物が見える。どうやら、金峯山寺(きんぷせんじ)の本堂・蔵王堂らしい。そこでは、花供会式というお祭りが行われているはずだ。蔵王権現のご神木である桜の開花をご本尊に報告する儀式だそうだ。

 この吉野山にはシロヤマザクラを中心に3万本以上、そのあまりの多さから「一目千本」と謳われ、全国屈指の桜の名所とされてきた。本来、吉野山金峯山寺を中心とする修験道霊場であり、ご神木である桜はことのほか大切に保護されている。そのため、蔵王権現に祈願する際には苗を寄進するのが最善の供養といわれ、平安のころから多くの桜が植えられるようになった。

 この吉野山には、いろいろな歴史が刻まれてきた。西行が隠遁生活を送ったのも、頼朝に追われた義経が弁慶たちと身を隠したのも奥千本のあたりである。政治の中心が鎌倉に移ろうとする12世紀も後半のことである。14世紀前半には、後醍醐天皇が朝廷を置き、南朝として京都と対峙したこともあった。16世紀末には、太閤秀吉が随行者5千人を引き連れて花見の宴を催している。

 ここ吉野は、戦前、すでに「国の名勝、史跡」と「吉野熊野国立公園」に指定されている。近年では、1990年に「日本さくら名所100選」、2004年には世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道」に指定された。吉野は、まさに天下の名勝であり、お花見のメッカといっても過言ではない。

 花の咲き具合もお天気も、現地に行ってみなければわからないのが花見である。今回は、情報収集がうまく機能し、両方ともピタリと決まった。
(2013年4月26日)

写真:金峯山寺本堂・蔵王堂――古い木造建築としては、東大寺大仏殿に次ぐ大きさだそうだ。
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