旭天鵬の優勝

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[エッセイ 345]
旭天鵬の優勝
 
 優勝決定戦は、日本人の栃煌山とモンゴル出身の旭天鵬の間で争われることになった。そのとき、私はなぜか旭天鵬を応援する気になった。日本人力士の優勝が、大関栃東以来6年間も途絶えたままになっているというのに・・。

 今場所は異例続きだった。14日目を終わった時点で、優勝決定戦進出の可能性を残す力士が6人もいた。3敗が3人、4敗も3人いた。ところが、15日目になって、突然4敗力士の芽が消えてしまった。琴欧州が当日になって休場届を出し、栃煌山の12勝3敗が確定したためである。

 3敗力士のうち、旭天鵬豪栄道に勝ったが、稀勢の里は把榴都に力負けし、決定戦進出は旭天鵬栃煌山の2人に絞られた。史上初の、平幕同士による優勝決定戦となった。しかし、そのうちの一人は、相手力士の突然の休場という棚ボタによって決まったものである。本人の責任ではないにしても、相撲ファンの間にはどこか割り切れないものが残った。

 その優勝決定戦はアッという間にけりがついた。コチコチになって突っ込んだ栃煌山を、旭天鵬はあっさりとはたき込んだ。栃煌山にしてみれば、不燃焼のまま、ふっきれない気持ちのまま土俵に上がったのかもしれない。優勝を決めて控室に向かう旭天鵬の顔は、涙でぐしょぐしょになっていた。

 優勝パレードの旗手は後輩の横綱白鵬が務めた。日本・モンゴル国交樹立40周年、彼の来日20周年の節目にあたっていた。外国人優勝力士10人目となった旭天鵬の優勝は記録ずくめである。初優勝の史上最年長記録を37歳8カ月まで伸ばした。もちろん、これは優勝時の史上最年長記録でもある。平幕の優勝は2001年秋場所琴光喜以来11年ぶりのことである。

 旭天鵬は1974年9月にモンゴルで生まれ、1992年にモンゴル人力士のパイオニアとして旭鷲山旭天山らとともに来日した。2005年に日本国籍を取得し、本名を太田勝と名乗っている。体格には恵まれ、身長191センチ、体重は158キロ、懐の深い力士として活躍している。いままでの最高位は西関脇、大島部屋の次の後継者に決まっている。

 彼は、入門当初、異文化に戸惑い、稽古の辛さに耐えかねてモンゴルに逃げ帰ったこともあったという。それでも、この20年間、コツコツとまじめに土俵を務めてきた。彼が踏みとどまっていたからこそ、朝青竜白鵬という横綱が生まれ、モンゴル出身の多くの力士が活躍できたといえる。彼はまた、日本人力士の人材不足を陰で補った大相撲の救世主であるともいえよう。

 現在の親方である友綱親方はこうコメントしている。「相撲に取り組む姿勢がいい。優勝は相撲の神様がくれたご褒美みたいなものでしょう」。
(2012年5月21日)