ウィーン

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[エッセイ 317]
ウィーン

 この旅に出る前、ヨーロッパの歴史を少し勉強してみた。時代とともに国境や国名がころころ変わる。どんな経緯で、なぜそうなるのか。そんな背景を理解しないまま今の姿を見物してみても、その感動は薄っぺらなものになってしまいそうだからだ。この地域が本場の、クラシック音楽もまたしかりである。

 5日目の夕方、ウィーンに着いた。夕食後、クラッシックのミニコンサートが予定されていた。レジデンツ・オーケストラという名のその楽団は、10名編成の室内管弦楽団だった。どうせ形ばかりのものだろうと高をくくっていたが、いざ始まってみると私たちを感動させるに十分な質量を備えていた。

 明けて6日目、私たちはウィーン郊外のシェーンブルン宮殿を訪れた。6百年以上にも亘って中欧を支配してきたハプスブルク家離宮である。パリのベルサイユ宮殿に負けないものを作ろうと手がけられたものだそうだ。夢の宮殿を見ているようで、歴史的な背景などへの思考回路は全く機能しなかった。

 ウィーンの市街は、かつては口のすぼまったU字形の市壁によって護られていた。その市壁も無用の長物となったため、取り壊されリングと呼ばれる広々とした環状道路に生まれ変わった。今のウィーン都心部は、U字型の下半分とその外側数百メートルの範囲といっていいだろう。

 私たちは、市立公園のヨハン・シュトラウス像を起点に、都心部を徒歩で見てまわった。ケルントナー通り―シュテファン大聖堂―グラーベン通り―コールマルクト通り―ミヒャエル門―ホーフブルク(王宮)―ヘルデン広場―市民庭園―市庁舎―国会議事堂、そしてマリア・テレジアの像が立つ広場。

 私たちは、その広場の一角にある美術史博物館で絵画を鑑賞することにした。ここには、ハプスブルク家の膨大なコレクションが収蔵されている。建物も、とくにホールの天井は息をのむほど美しく立派である。入館料は大人12ユーロと表示されていたが、年齢を言ったら9ユーロにしてくれた。

 私たちにはあと一カ所どうしても寄りたいところがあった。毎年正月に、テレビ中継される「ニュー・イヤー・コンサート」の舞台・ウィーン楽友協会ホールである。あたりはやけに静かだった。もちろん中に入ることなどできない。建物の周りをぐるぐる回って、それで満足することにした。

 ウィーンの主だったところは、この足で納得いくまで歩いてきたつもりだ。絵も見た。音楽も聞いた。それでも、気持ちの中になにか物足りなさが残っている。振り返ってみると、ヨーロッパの国境がくるくる変わってきた経緯も、ハプスブルク家が長期にわたってヨーロッパを支配できた理由も、さらにはクラシック音楽がこの地で花開いたわけも、結局はなにもわかっていなかった。
(2011年7月25日)

写真 上:シェーンブルン宮殿
    下:ウィーン楽友協会ホール