ウサギへの誤解

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[エッセイ 299]
ウサギへの誤解

 今年は卯年、ウサギ年である。私は遥か昔のその卯年の生まれ、私にとってはそれなりに意義のある年である。それはともかく、ウサギのことを“兎”と書かないで、なんで“卯”と書くのだろう。

 子供のころ、わが家でもウサギを飼っていた。使わなくなった小さなニワトリ小屋に、近所からもらってきた白いウサギを飼い始めた。ところが、その彼女はトンネルを掘ってすぐに逃げだした。そんなに遠くには行かないのですぐ連れ戻せたが、小屋に丈夫な床を張るまで何度かそんなことを繰り返した。

 ところで、私たちはそのウサギについて、たくさんの誤解を持っているようだ。卯年を迎えた機会に、一度整理しなおしてみることにした。一番の認識違いは、ウサギの数を“1羽2羽”と数えることだ。その誤解のもとになったのは江戸時代のことらしい。町人たちは四ツ足の肉を禁じられていたので、“鳥”ということにすればいいだろうとそう呼ぶようになったという。

 同じような根拠で、あれは“鵜と鷺”だから“羽”と数えるというこじつけもあった。さらには、捕獲したウサギの耳を束ねてぶら下げて帰ったことから、“1把2把”と数えていたのが転じたという説もある。いまも“羽”と呼ぶ習慣が残っているが、やはり“匹”あるいは“頭”と数えるのが妥当のようだ。

 “ウサギは目が赤い”と信じている人もまた多い。しかし、そう思っているのは日本人だけらしい。目が赤いのは「日本白色種」という特定の種類に限られる。それも、アルビノと呼ばれる先天的な色素欠乏症のものだけだそうだ。ただ、日本で飼われていたものの多くが日本白色種であり、その大半が色素欠乏症だったので、そう誤解するのも当然といえよう。

 “ウサギを持つときは耳をつかんでぶら下げる”というのが私たちの常識になっている。しかし、これも大変な間違いのようだ。ウサギにとって抱かれたり掴まれたりすることは、他の肉食動物に捕まってしまったのと同じ感覚なのだそうだ。彼女たちにとっては大変な恐怖なので、触らないのが一番だそうだ。どうしても掴みたいときは、背中やや前方を大掴みにするのがいいという。

 ほかにも、“水を飲むと死ぬ”とか“寂しいと死ぬ”、あるいは“声を出さない”と信じられているようだが、いずれも誤解といってよさそうだ。

 ウサギにまつわるおとぎ話は世界中で愛されている。私たちの抱くウサギのイメージは、ピーターラビットのようにちょっぴりいたずらっぽかったり、バニーガールのようにセクシーだったりと多岐にわたっている。しかし、これほど人から愛されている動物も珍しい。彼女たちのことをもっと深く知り、優しく接してやっていいのではなかろうか。
(2011年1月25日)