弟のこと

イメージ 1

[エッセイ 269](新作)
弟のこと

 私には、11歳、12学年も離れた弟がいた。その弟が急逝して丸49年が経つ。先日、6歳違いの妹と、彼の五十回忌の法要を営んだ。本来なら、親戚まで呼ぶのが筋であろうが、菩提寺でお経をあげてもらうだけのささやかなものにした。弟がまだ小学生だったことと、あれからもう半世紀にもなるためだ。

 その弟は、肉親の欲目かもしれないが、闊達でなかなか頭のいい少年だった。とくに、海は大好きだった。当時、近所には小イワシの網元があり、その手伝いなども自分から買って出ていた。イワシ網の船団は早朝沖に出て一網曳く。弟は、沖で働くその漁師たちのために、一人で小舟を漕いで朝食の弁当を届けに行く。もちろん、釣りなど自分で魚を獲ることも大好きで、みんなから「大きくなったら漁師になるのだろう」などといわれていた。

 あれは49年前の正月明け、彼が小学校の4年生、私が大学の4年生のときだった。私が冬休みで帰省しているところへ、東京に実家をもつ大学の友人がわが家に遊びに来きてくれた。彼は一週間ばかり滞在したが、自宅に戻るときは私と一緒に上京することになった。私も就職内定先の会社から、年が明けたら一度会社に顔を出すようにいわれていたのだ。

 1月19日だったと思う。二人は、朝早く実家を発った。私たちは、錦帯橋、宮島、原爆ドーム、姫路城、そして神戸市内を精力的に巡って大阪までたどり着いた。大阪では、幼なじみの友人が勤め先の寮に泊めてくれた。翌日は京都市内を観光した。その夜、京都から上りの夜行急行に乗った。東京に着いたのは翌1月21日の朝だった。

 アパートに着いてみると、実家の近所に住む伯父から電報が届いていた。文面には「コウジ(耕二)キトク」と書かれていた。当時、実家やその近所に電話はなく、詳しいことを聞くことはできなかった。「交通事故にでも遭ったのかなあ」などと考えながら、とにかくその日の急行で引き返すことにした。元気づけのつもりで、弟の好きな週刊・少年サンデーもお土産に買った。

 実家を出て3日目、1月22日の朝実家にたどり着いた。弟は白い木の箱に寝かされていた。放心状態の父から聞きだしたところによると、弟は私たちが出発した日に風邪で熱を出した。容態が芳しくないので入院させたところ、急速に悪化し翌20日の夜急性肺炎で亡くなったという。「少年サンデー」は彼のそばにそっと置いてやった。

 以来、“急性肺炎”はわが家のトラウマとなって永く私たちにつきまとうことになる。いまも、弟のことを思い出すとき、「いま何歳になったのだろう」と彼の歳を指折り数えてしまう。
(2010年1月24日)