温泉旅行

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[エッセイ 34](既発表 6年前の作品)
温泉旅行

 私たちは、予定のルートを変えて1号線を芦ノ湖にむけて登っていった。9月も最後となるその日は、台風がちょうど小笠原諸島を通過中であった。空気中のチリや水分は根こそぎ超低気圧に吸い寄せられてしまったのか、上空は抜けるような青空であった。雪化粧の整わない富士山がくっきりと透けて見えた。

 温泉一泊旅行を決めたのはちょうど10日前であった。4月に母が入院、無事退院はしたものの以降連絡は絶やせない。6月末には、居候のミニチュアダックスフンド椎間板ヘルニアがもとで下半身付随となり、被介護犬として面倒をみなければならなくなった。7月下旬からは、妹の義父が危篤状態に陥り2ヵ月近くみんなで心配しつづけた。

 暑さも一段落した9月中旬、妹の義父の葬儀が厳かに執り行われた。週2回点滴をしてもらっているという母は、そのころだいぶ元気を取り戻していた。一方、わが家の居候犬は少しずつではあるが足が立てるようになってきた。彼女の主治医は、短期間なら格安で犬のホテルを引き受けてもいいといってくれた。この5ヵ月ばかり、われら夫婦の頭上に重くのしかかっていたものが少し軽くなってきたような気がする。

 10日前、そのような雰囲気の中でインターネットによる温泉旅館の検索を始めた。行き先は、食事のことを中心に考え、いつもは通過点でしかなかった伊豆・稲取温泉と決めた。中規模でグレードは中よりやや上の旅館、予算はいつもより少し奮発することにした。インターネットによる検索はやはり正解であった。月別、曜日別料金体系や予約状況が一目でわかる。閲覧者むけにはいろいろな特典も用意されている。希望どおりの予約が一発でとれた。

 料理はさすがに見事であった。刺身の船盛り、名産の金目鯛の煮付やしゃぶしゃぶなど、海の幸を存分に取り入れ、きれいに調理された料理が座卓いっぱいに並べられた。もちろん、その味、量、そしてバラエティーどれをとっても文句のつけようがなかった。せっかく用意したビールは、食べるのに忙しく半分も残してしまった。ご馳走感はずいぶん久し振りである。満腹感、満足感はいうに及ばない。台風の余波で少々荒れ気味の波音も安らかな子守唄になった。

 普段とまったく異なる環境と空間。夕食前、就寝前そして朝、1日3回のゆったりとした入浴。平素決して口にすることのできない贅沢極まりない食事。温泉は、日本人に非日常と豊かさと、おまけにわがままな振る舞いまでも享受させてくれる。たった1泊2日の温泉旅行が、消え入りそうなエネルギーを無限に再生してくれる。男も女も、老いも若きも、こぞって温泉に足を運ぶ。

 それにしては、昨今の温泉街のさびれかたはなんだろう。
(2003年10月3日)