愛犬の里帰り

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[エッセイ 305]
愛犬の里帰り

 むかし、キセル乗車という言葉をよく耳にした。乗車駅と降車駅それぞれに有効な乗車券をもち、中間部分は無札のままタダ乗りしようというものだ。キセルは、雁首と吸口が高価な真鍮製で中間部分はただの竹でできている。不正乗車のやり方が、その構造に似ていることからそう呼ばれるようになった。

 わが家の愛犬の飼い方も、長男の家族にとってみればそんな位置づけになるかもしれない。まもなく14歳になるメスのダックスフンドは、長男のお嫁さんが結婚数ヵ月前に買い求めた。かくして、キセルの雁首部分にもあたる子犬の青春期は、新婚の長男夫婦のもとで送ることになった。
 
 数年後、長男夫婦に長女が授かった。生まれたばかりの赤ちゃんが、犬と一緒にいるとアレルギーになるかもしれないと心配した長男は、その犬をわが家に連れてきた。飼育経験のないわれら夫婦は大いに戸惑ったが、赤ちゃんが少し大きくなるまでという約束でしばらく預かることにした。

 赤ちゃんは順調に成長していった。犬をぼつぼつ返そうと思っていた矢先、お嫁さんは次の子供を出産することになった。その次女が大きくなるまで、犬のことは棚上げせざるをえなくなった。犬にまつわる病気やトラブルもたくさん経験したが、居候の愛犬はすっかりわが家の一員として定着していった。

 しかし、いつまでもそのままという訳にはいかない。なんとか早めに返したいとあれこれ考えてみた。ところが、もたもたしているうちに、今度は長男がニューヨークに転勤することになった。この際だから一緒に連れて行ってもらおうと思ったが、それは検疫などの関係で事実上不可能と分かった。結局、愛犬の居候は、長男たちの帰国のときまで伸びることになった。

 家族4人のアメリカ滞在は6年半に及んだ。そして2年前、彼らはやっと帰国してきた。やれやれと思ったが、私たちの期待はまたも裏切られることになった。長男たちの都内での住居はマンション風の社宅で、ペットを飼うことはできないというのだ。

 帰国から1年が過ぎたころから、長男たちの家族は持ち家を真剣に考えるようになった。そして昨年秋、杉並区内に土地を求め地鎮祭にこぎつけた。引っ越しは、子供の学校の関係から春休みにタイミングを合わせた。愛犬の引き渡しは、それが一段落した先週の日曜日となった。

 あれから10年と3カ月、キセルの竹の部分にしてはずいぶん長い期間だった。愛犬は、来月には14歳の誕生日を迎える。人間に置き換えると72歳に相当するという。キセルの吸口部分にあたる余生はあまり残されてはいないが、真鍮以上の価値のある時間を過ごしてもらいたいと願っている。
(2011年4月22日)