大地震

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[エッセイ 26](既発表 6年前の作品)
地震

 先週土曜日、宮城県の北部を大地震が襲った。強い揺れは3波にわたった。その大地震は多数の負傷者と莫大な損害をもたらしたが、幸い死者は出なかった。この地震は、25年前に発生した宮城県沖地震再来の前兆ではないかと心配されたが、結果的にはまったく根拠のないものであった。

 1978年、私たち家族が住んでいた仙台を、宮城県沖地震が襲った。その日、私は出張で郡山にいた。夕方の5時過ぎ、地震は会議中のわれわれも襲った。テレビは、被害の様子を次々と伝えてきた。仙台市は最大の被災地で、被害は私達の想像をはるかに超えていた。私は強い不安に襲われすぐ自宅に電話をしてみた。しかし、電話は極端な混乱状態にありまったくつながらなかった。

 テレビは死傷者の名前を伝えはじめた。そのうち、向陽台小学校3年生の男児が1人亡くなったが、名前までは確認できていないというテロップが流れはじめた。その児童のプロフィールは私の息子と一致した。「まさかうちの子に限って」とは思いつつも、私は必死でダイアルを回しつづけた。その時、電話は偶然つながった。家内と2人の子供は無事であった。私は安堵の溜息をつく一方、全身の力が抜けていくのを実感した。

 翌朝、私はその事務所で車を借り自宅に向かった。仙台に近づくにしたがい、地震のつめ跡は大きくなっていった。国道には大きな亀裂が走り、いたるところに段差ができていた。信号機は停電で消えたまま。救援物資を満載したトラックが押し寄せ、交通混雑に拍車をかけた。日本家屋は例外なく棟が崩れ、瓦はすべり落ちていた。わが家も、ブロック塀が崩れかかっていたが、家族はみな元気な顔をそろえていた。

 その時、家族3人は自宅にいた。地震がきたと同時に食卓の下に避難したそうだ。戸棚から食器が崩れかかってきたが、幸い誰にもケガはなかった。しかし、息子のクラスメイトが死んだというのは本当の話だった。しかも私の知り合いの子息であった。聞いたところによると、その隣の家のブロック塀が倒れ、ちょうどそのそばで遊んでいた男の子が下敷きになったそうだ。

 その日から、超不便な原始生活が始まった。生活の基本的なサービスはすべてとまっていた。電気、水道、ガス。この3つが止まるとどういうことになるか。炊事や洗濯、掃除さえできない。トイレも、風呂も使えない。夜は真っ暗。たいていのことは我慢できるが、トイレだけは本当に困った。都市生活が、いかに壊れやすいものであるかを実感させられた十数日間であった。

 ノドもと過ぎれば熱さを忘れるというが、私たちは13人の犠牲者を出した大惨事の教訓を忘れてはならない。
(2003年8月2日)