稲むらの火と津波防災の日

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[エッセイ 325]
稲むらの火津波防災の日

 きのう11月5日は、第1回目の津波防災の日だった。今年6月24日に成立した「津波対策の推進に関する法律」の中で定められたものだ。もちろん、3月の東日本大震災を受けてのものである。

 その津波防災の日は、当然3月11日が妥当と考えられるが、それではあまりにも生々し過ぎるということになったらしい。そこで、江戸時代の史実をもとにした逸話までさかのぼることにしたようだ。私は、この話をNHKテレビの「そのとき歴史が動いた」(2005年1月放送)で見て、大いに感動した覚えがある。その逸話とは次のようなものだ。

 ・・・時は安政元年11月5日夜、場所は紀州廣村(現和歌山県有田郡広川町)。この日の午後4時ごろ、南海道沖でM8.4という大地震安政南海地震)が発生した。この地震による大津波が、繰り返し日本の太平洋岸を襲った。

 村には、逃げ遅れた人たちが暗闇の中で立ち往生していた。この土地の有力者だった濱口梧陵は、この人たちを救うために、自身の田にあったワラの山に火をつけてまわり高台へと誘導した。この逸話は「稲むらの火」と呼ばれ、後世に語り継がれることとなった。

 安政元年11月5日は、実際には嘉永7年11月5日だった。しかし、あまりの大惨事に、縁起直しの願いを込めて元号安政に変えたらしい。またこの日は、いま使われている新暦でいうと、1854年12月24日にあたる。

 実は、この地震の前日にも、同規模の大地震が発生している。東海道沖を震源とする安政東海地震である。安政元年11月4日(実際には嘉永7年、1854年12月23日)午前10時ごろの発生、マグニチュードは8.4だった。このときにも津波は発生したが、規模は後の方がずっと大きかったという。

 両大地震の被害は、先に発生した“東海”が、建物全半壊9,000棟、死者600人、後で発生した“南海”は、建物全半壊81,000棟、死者3,000人だったといわれている。

 ヒーローである濱口梧陵(1820-1885)の出身はこの廣村だが、12歳のとき本家である銚子の醬油屋・今のヤマサ醤油の7代目として養子に出る。当時は、銚子とこの地を行ったり来たりしていたようで、津波のときは廣村にいたという。梧陵とは後の名前で、当時はまだ儀兵衛を名乗っていた。・・・

 それにしても、これだけ具体的な資料が残っており、ほかにも数えきれないほどのデータがあるはずなのに、人々はなぜ見て見ぬふりを通してきたのだろう。専門家でさえ、なぜ“想定外”などといって逃げていたのだろう。これを機に、みんなでもう一度防災の原点に立ち戻りたいものだ。
(2011年11月6日)