向陽台

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[エッセイ 253](新作)
向陽台

 6月の末、仙台在勤のころ家族で5年間住んだ思い出の町を訪ねてみた。仙台OB会の翌日、実に28年ぶりの訪問である。

 私たちの住んでいたところは、泉市の向陽台という戸建住宅のニュータウンであった。当時の泉市は、このようなニュータウンの散在する中核市街地を持たない新興の衛星都市であった。泉市は、後に仙台市と合併して政令指定都市の一翼を担うことになる。アクセスは、仙台駅とそれぞれ直通バスで結ばれていた。向陽台から仙台中心部まで、朝夕はバスで40分くらいかかった。

 この日の朝、仙台を南北に貫く地下鉄に初めて乗った。私たちが転出した10年後に全線開通したものである。沿線の交通体系も、それに対応して再編成されているはずである。私は、勾当台公園駅から終点の泉中央駅をめざした。当時、田んぼの中に市役所が建てられ、市の中心市街地の形成を目指していた場所である。そこから向陽台行きのバスも出ているはずである。

 いまは泉区役所と名前を変えた元の市役所のあたりは、全くの別世界に変貌していた。昔の田園風景を思い起こさせるものなど、何ひとつ見いだせなかった。バスターミナルの一角に向陽台行きの標識を探し当て、発車時刻を確かめた。バスは出たばかりで、次の便まで30分以上もあった。

 泉中央駅から国道へは、丘の上にある大きな住宅団地の下をトンネルで抜けるようになっていた。その向かいの雑木林に覆われた丘陵地帯は、いまは大規模な住宅地に生まれ変わっていた。やむなく乗ったタクシーは、私の記憶にない道筋をたどりながら突然向陽台に入っていった。

 元借りていた家は建て替えられ、近隣の様相も一変していた。あちこちに散在していた空き地には、みな新しい家が建てられていた。農協のスーパーや薬局もとっくに店じまいしたという。子供たちのお世話になった内科医院もつい最近閉院したという。あたりには、昔を懐かしむ風景はほとんど残されていなかった。向陽台に降り立った私は、まさに浦島太郎であった。

 どうやら、そこまでのルートを間違えてしまったようだ。地下鉄で暗闇の中を走り、トンネルと見覚えのない街を抜けて目的地に直行する。これでは、目隠しをされたまま現地に連れて行かれたのと同じである。脈絡のないまま様相の一変した街に降り立っても、ノスタルジーなど感じられるはずもなかった。

 仙台の中心部は、建物や店は変わっても街路は昔のままである。それにひきかえ、私の住んでいた町は開発途上にあった。田んぼを埋め、山を切り開いて、記憶や思い出までも自分の意思にかかわりなく作り変えられていった。

 愛する町の発展の喜びより、思い出が壊れた落胆の方がはるかに大きかった。
(2009年8月1日)