私の生れた家・安部本陣

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[エッセイ 241](新作)
私の生れた家

 以前から、息子にわが家のルーツについてまとめておいてほしいといわれていた。しかし、名前を並べただけの家系“図”を作ってみたところであまり意味がないように思えて気乗りしなかった。先月、その息子に再会したとき、またその話になり生返事を繰り返してしまった。ゴールデンウィークの最中、ふとそのことを思い出し、自分史の年表くらいは整理しておこうと思い立った。

 私が生まれたのは、山口市の「安部本陣」といわれていた家である。由緒ありそうな、古い大きな家であった。祖父がそこを借りて建設業を営んでいた。その仕事はわが家の家業であったので、私の両親もそこに一緒に住んでいた。父には長兄がいたが、戦前から満州の牡丹江で役所勤めをしており、父が家業を継ぐつもりだったという。

 私が3歳のころ、父が肋膜炎にかかり、そのうち母も同じ病気を患うようになった。転地療養がよかろうということになり、いまも実家として残る先祖伝来の家に移った。一方、満州の伯父一家はそこに見切りをつけ、太平洋戦争の状況が厳しくなる前に祖父のところへ帰ってきた。それぞれの家族の住まいは、結局その状態で固定されることになった。

 その安部本陣は、もとは江戸時代の豪商・安部半衛門という人の邸宅で、山口における脇本陣として毛利藩主一族の宿所としても使用されていた。幕末には、小松帯刀西郷隆盛大久保利通などが山口に来たとき泊ったともいわれている。私が高校2年生のころ伯父一家は他所へ移り、跡地にはスーパーとアパート、それに「安部本陣の跡」という碑が建てられた。

 さっそく自分史の記述に取りかかったところ、“あべ”が安倍だったか安部だったかはっきり覚えていないことに気がついた。そこで、インターネットで検索しようとキーワードを入れたところ、いきなり次のような文章に出くわした。

 「・・山口の中央街路の真中からすこし外れた所に、一之坂川という小川が南下して天神川すなわち椹野川というのへ注ぐが、その小川が道場門前町を横切るところの川沿いの屋敷、その橋の袂の左詰めの家が、私の生れた家であった。・・」一瞬、私の投稿した記事が無断転載されたかと勘違いした。

 実際に書いたのは新村出(1876~1967)という高名な言語学者であった。この人の実父である関口隆吉という人が、山口県令(いまの県知事)としてこの地に赴任してきたとき住んでいた家だそうだ。上の文章は、「わが学問生活の七十年ほか」(日本図書センター)という本の一部だということだ。

 新村氏と私とでは比べようもないが、130年前と70年前の奇縁がいまインターネット上で出会えるとは思ってもみなかった。
(2009年5月8日)