丑年

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[エッセイ 578]

丑年

 

 明けて今年は丑年、十二支の2番目にあたる。このウシ年の“丑”という字は、紐、あるいは絡むという意味だそうだ。また、植物の種の中に芽が生まれ、これから伸びようとする状態を表わしているともいう。さらに、指を鍵型に曲げて、糸を撚ったり編んだりするときの象形だともいわれている。丑年のキャラクターは牛であるが、なぜそうなったかは今もはっきりは分からないそうだ。

 

 私の子供の頃、牛は農耕や運搬などの力仕事には欠かせない存在だった。実家の隣の家でも黒い牛を飼っており、最低年2回はそれのお世話になった。初夏の田植え時の田起しと、初冬に田に麦を撒くときの畝作りである。トラクターなどが導入され、黒牛の姿が見られなくなるのはまだずっと後の話である。一方、伯父の家では乳牛を飼っており、新鮮な牛乳もずいぶん飲ませてもらった。

 

 牛を家畜として飼うのは、農耕や運搬などもっぱら力仕事をさせるためだった。僅かだが、その力強さを活かして闘牛などの娯楽に利用する場合もあった。一方、搾乳を目的とした酪農もさかんに行われていた。牛を、肉や皮革、あるいは薬などに利用する場合は、かつては用済みになったものが当てられていた。

 

 このことは、西日本で肉といえば牛肉を指すことからも納得がいく。この方面では、農耕や運搬にはもっぱら牛を利用していたためだ。一方、東日本で肉といえば豚肉を指すことが多かった。こちらは馬の利用が中心だったが、馬肉は量も少なく味や食感も物足りなかったことから豚肉で代用したためのようだ。ちなみに、東西の境界線は糸魚川静岡構造線と呼ばれる大断層だといわれている。

 

 わが家の昼と夜の食事は、肉と魚を交互にいただくようにしている。しかし、肉は豚肉が圧倒的に多い。値段もさることながら、使い勝手に優れ味も親しみやすいためだ。一方、朝食は牛への依存度が極めて高い。牛乳とヨーグルトは毎日必ずいただき、2回に1回はトーストにチーズを挟むことにしている。

 

 ところで、受験シーズンが近づいてくると、受験生やその父兄が天神様にお参りする光景が見られるようになる。学問の神さま菅原道真と、その使いである牛に合格の願いを託すためである。ところが最近、その臥牛の銅像の周りにロープが張られたという。もし参拝者が、合格祈願で牛の頭を撫でれば、それが媒体となってコロナウイルスが広がっていく危険性があるためだそうだ。

 

 牛は、身近にあって敬愛される生き物だが、頑固なことや行動力に欠けるなどの物足りない面もたくさんある。しかし、あの忍耐強さやプライドある物怖じしない態度は、かつては神として崇められたことさえあった。コロナ禍に打ちのめされた私たちが、その2年目の丑年に向けて立派に立ち直るためには、首尾一貫した施策と牛のような忍耐強い取り組みが欠かせないのではないだろうか。

                       (2021年1月1日 藤原吉弘)

※写真はダイヤモンド富士テレビ朝日の画面から・・あえてダブルダイヤモンドにはしていない