ハワイ旅行 半世紀前の思い出②

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[エッセイ 494]
ハワイ旅行 半世紀前の思い出

 昭和40年代、まだ海外旅行が珍しかったこの時期に、ハワイに行けたのは会社が打ち出した販売店向けセールのおかげである。セール期間中に優秀な成績を上げた販売店に、ハワイ旅行という「景品」が贈呈された。私はその随行員として、お客さまのお供で出かけたわけである。こんな豪華景品は、「不当景品類及び不当表示防止法」によってすでに規制されていたはずである。しかし、当時の監督官庁である公正取引委員会の指導はまだ緩やかなものだった。

 私たちが最初に訪れたのは、面積が四国の半分もあるというハワイ諸島最大のハワイ島だった。彼のカメハメハ大王の生まれ故郷である。ここでガイドを努めてくれたのは、日系二世のおじさんだった。最初に案内されたのは、この島最大の都市ヒロ市内だった。芝生が美しい日本庭園リリオウカラニ公園や、日系人の経営するラン園など、おもに日系移民が携わった名所を見て回った。

 私たちは、この島の最高峰、標高4,205メートルのマウナ・ケア山に向かった。南国でありながら雪が積もるという富士山より高い山である。空が透き通っていることから、山頂には世界各国から天文台・望遠鏡が集まっている。ガイドは、「あの山の高さは、日本の単位でいうとおよそ1万4千尺になります」と、親切のつもりでわざわざ“尺”に置き換えて説明してくれた。

 このガイドさんの両親は広島県出身だそうで、説明はすべて一世紀前の広島弁だった。訛りや言葉の抑揚、そして方言のすべてが広島県西部のなごりをそのまま残していた。私にとっては、ひいおじいちゃんの話を聞いているようで大変懐かしかった。その一方、方言もたくさん混じっていたことから、他の地域からの参加者には難解なことも多かったのではなかろうか。

 この当時のハワイ観光は、ある面で日系移民の足跡をたどる旅でもあった、日系移民が始まってまだ100年しか経っていないときであり、一般の日本人が観光客として訪れるようになって間もない時期だったためである。実際、マウイ島では日系移民が労働者として苦労したサトウキビ畑を見てまわった。そして、後にオプショナルツアーで訪ねたカウアイ島は、わがふる里の島と“姉妹島”縁組を締結している。ちなみに、アロハシャツは、そのふる里からの渡航者が、着用していた浴衣を短く切って着やすくしたのが起源といわれている。

 ハワイ移民は、1868年に始まり、官約移民といわれる政府公認の移民が終わる1894年までの16年間で29,084人が参加したという。うち、広島県からは11,122人、山口県からは10,424人、その中にはわがふる里の出身者が3,914人含まれていた。初期のハワイ移民は中国地方出身者が大半を占め、現地の標準的な日本語が広島弁であるゆえんである。
(2018年9月7日)

写真は当時の案内パンフレットの表紙ーワイキキビーチにまだ高いビルはない。