紅葉狩り

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[エッセイ 38](既発表 5年前の作品)
紅葉狩り

 朝から快晴、気温は高め、当然道路はガラガラのはずだ。せっかく時間がありながら、どこにも出かけないという手はないだろう。日光は遠すぎる、箱根はまだ早い、紅葉は甲府の昇仙峡が見ごろではなかろうか。11月の第1週、3連休の翌日のことである。

 その昇仙峡には、職場の小旅行で出かけたことはあるがあまり明確な記憶はない。車はまばらなので、現地に着いてからもそのまま行ける所まで進んでみることにした。

 渓谷沿いの狭い道ではあるが、歩行者に迷惑をかけることもなくスムーズに上っていった。本来なら、自分の足でゆっくりと散策を楽しむべきであるが、行程は片道5キロもあるという。もし入口近くに車を止めていたら、ごく限られた範囲の観光になるところであった。

 両岸から迫る奇岩や巨岩、その間を縫う清流、松と楓がおりなす緑と深紅のコントラスト、そして晩秋のやわらかい光がこれらの明暗を際立たせていた。

 秋になると、私たちは「紅葉」や「もみじ」あるいは「カエデ」といった言葉を何気なく口にしてきた。紅葉ともみじはどう違うのだろう。広辞苑によると、「紅葉」とは、秋に葉が紅色に変わること、また、その葉。「もみじ」とは、紅葉(黄葉)すること、また、その葉。とあり、両者に明確な違いはない。ただし、もみじには、カエデの別称という別の説明もついている。

 カエデが、紅葉する樹木の代表格であることから、カエデのことをついもみじといってしまうらしい。もみじの意味するところの大部分が紅葉と重なるので、この三つの言葉が混同されるのも無理からぬことかもしれない。ちなみに「カエデ」とは、カエルデ(蛙手)の略、葉の形が似ているからいう、とあった。

 昇仙峡の渓谷沿いを上っていくと、中間地点にもみじの林があった。木々は真赤に燃え、逆光に透ける一葉一葉が命のいとなみとはかなさを訴えていた。その上流の山々は、全山が黄葉していた。箱根だって11月も中旬になれば「山が燃える~」の状態に変わる。カナダやヨーロッパの山々はもっと燃えているという。

 その風景は確かに壮観ではあるが、それだけではどうしてももの足りなさが残ってしまう。たしかに、観光案内のパンフレットには紅葉だけの写真を見かけることは少ない。そこには、古刹が見えていたり渓谷に石の橋がかかっていたりする。主役のそばには必ず添え物が置かれている。

 芝居は、脇役がしっかりと周りを固めてこそ、主役が引き立ち観客は固唾を飲む。主と脇の絶妙な掛け合いとライティングのコントラストが、臨場感あふれる舞台を創り出す。今まさに燃え尽きようとする赤い命は、立派な添え物と光と影によってその輝きを増す。
(2003年11月8日)