国盗りの城

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[エッセイ 223](新作)
国盗りの城

 美濃の国盗りに成功した斉藤道三は、天文8年(1539)、稲葉山に城を築く。もともと、鎌倉時代に築かれた砦のあった所である。道三は、11年後の天文20年(1551)、守護の土岐頼芸を追放し美濃の国の実権を握る。

 斉藤道三は、油商人から身を起こし、ついに国盗りに成功する戦国時代の下克上を象徴する人物である。他人からは「美濃の蝮」と恐れられ、自らは僧侶、商人、そして武士の三つの道を歩んだことから「道三」と名乗った。

 道三は、天文23年(1554)に家督を嫡子の斉藤義龍にゆずり鷺山城に隠居する。しかし、弘治2年(1556)、不和になった義龍と長良川を挟んで親子で戦い、打ち破れてその生涯を閉じる。

 その後、稲葉山城の城主は、義龍からその子の龍興へと引き継がれる。道三の孫にあたる龍興は、永禄10年(1567)、道三の娘婿・織田信長に敗れる。信長は、この城を岐阜城に、稲葉山金華山と改称し、天下統一の本拠地とする。

 岐阜城主は、信長の後、5人の大名を経て織田秀信へと引き継がれる。慶長5年(1600)、秀信が関ヶ原の合戦で西軍に味方し、敗れて開城する。慶長6年(1601)、岐阜城は廃城となり、天守閣や櫓は取り壊される。以降、3百年間、そこに城が建てられることはなかった。

 明治43年(1910)、木造の模擬城が建てられるが、昭和18年(1943)消失してしまう。戦後の昭和31年(1956)、三層四階の天守閣が再建される。平成9年(1997)に大改修され、信長のころの壮麗な姿がよみがえった。

 この秋、長年の念願がかなって、初めてこの地に足を踏み入れることができた。いままで、何十回ここを通り過ぎたことだろう。緑豊かな急峻な山が、広大な平野の中に忽然と現れる。頂には、白く輝く城を乗せている。

 金華山の海抜は329メートル、高低差300メートルを超える険しい山が街の真ん中にそびえたっている。全山周回のドライブウェイが、原生林を縫うように九十九折りに続く。勾配のきついロープウェイが、天に向かって一直線に延びる。ゆるやかな流れの長良川が、麓をかすめて平野の彼方にかすむ。

 ここは、水量豊かな流れと切り立つような崖に守られた、難攻不落の天然の要害である。信長はここをどう攻めたのだろう。敵の何層倍もの知恵と勇気と犠牲があってこそなしえた城攻めであったはずだ。

 ここは、戦国時代のヒノキ舞台であった。NHK大河ドラマにも何十回となく登場した。この山の険しさ、その城の美しさ、そして数々の悲劇が、そのままドラマの面白さに通じていた。美濃を制する者は天下を制すとまでいわれていた。その美濃が、いつの間に通過地になってしまったのだろう。
【美濃、飛騨の旅 曄複横娃娃固11月2日)