人も鮭か

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[エッセイ 36](既発表 5年前の作品)
人も鮭か

 先週土曜日、郷里で開かれた中学校の同期会に初めて参加した。1954年の卒業であるから、ほぼ50年ぶりに出会う人も多い。私が60歳になったとき、その同期会は一度開かれていた。その時私はまだ現役で、仕事の関係からそれだけの時間をとることができなかった。この夏帰省したとき、近所の友人からその企画を聞き早々に参加の意志を固めていた。

 50年の空白はあっという間に埋まった。半世紀前の童顔をそのまま今に引きずっている人、16歳のときとはまったく別人になってしまった人、昔の顔を思い浮かべすぐタイムスリップできた人、3日たった今日も当時を連想できない人、65歳になっても若々しく元気はつらつとしている人、すっかり老け込みどう見ても70歳を越えているとしか思えない人、まさに多種多様であった。

 背中を丸めて座っている目の前のおばあちゃんが、少年たちの心を騒がせたあの時のあのアイドルなのか。酒やけした向かいのはげ頭のおじいちゃんが、本当に少女達に追っかけられたあの美少年なのか。

 この50年ぶりの再会が、私自身にとってきわめて意義深いものになったことは言うまでもない。単に余暇を楽しむだけなら、東京近郊にいくらでもその方法を見つけだすことができる。韓国旅行のパックツアーなら、もっと安い費用で豪勢にやれる。同期会への参加は、見失いかけていた自分の原点を再発見する旅となった。

 この秋は、同郷の人との交わりに参加する機会がとくに多かった。同郷の会、同窓の会、同期の会、それぞれにパーティーやらゴルフコンペなどの集まりが伴う。会社のOB会まで勘定に入れると、週一回以上のペースになってしまう。

 人は、年齢を重ねるごとに、ふる里のより近いところに身を置こうとしているかのようである。現役を退いて、人生の大半を占めていた仕事を通しての人間関係が希薄になってきたためかもしれない。前しか見ないがむしゃらな生き方をしていたのが、力の減退とともに後ろも振り返らざるをえなくなってきたためかもしれない。

 鮭は、4年後に自分の生まれた川に戻ってくる。子孫を残す、ただその目的のためにのみである。生まれおちた川は、自身のルーツそのものであり、その川が子孫を残すのに最適な場所であることを知っているためであろう。人は、現在の生活基盤と社会との関わりをなによりも大切にしている。これらのよりどころが脆弱になってきたとき、自分のルーツのより近いところに身を置こうとするのではなかろうか。

 人生とは、自己のアイデンティティを求める旅なのかもしれない。アイデンティティは、生まれ故郷にその源流を発している。
(2003年10月28日)