政火リレー

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[風を感じ、ときを想う日記](160)4/26
政火リレー

 赤い旗が沿道を埋め尽くす。たまに、テレビニュースでおなじみになったあのカラフルな旗が混じる。日本の、一般市民の姿などほとんど見られない。日本の平和な地方都市とは思えない異様な光景である。

 意地と意地、面子と面子、建前だけが支配する政治ショー、そこにはスポーツ精神のかけらも見当たらない。こんなものがなんでスポーツの祭典なのだろう。なぜ、こんな高い代償を払ってまでやらなければならないのだろう。

 そもそも、今回の騒動の発端はなんだったのか。聖火リレーとなぜ結び付けられなければならなかったのか。なぜ、ナショナリズムの対立の構図に変質し、それが外国の街を舞台に大騒動をおこさなければならなかったのか。

 一方の聖火リレーは、いつ、どこで、どのような意図で始められたのか。もちろん、オリンピックの発祥当時には存在しなかったものである。その意義は、必要性はどこにあるのか。もし、このリレーをやらなかったら、オリンピックになにか支障があるのだろうか。

 やめることの意味の重さ、やめることの影響の大きさは、強行することよりはるかに重大である。それでも、もし聖火リレーが政火リレーとして政治的に利用されるようなことがあれば、勇気をもって中止に踏み切ってもらいたい。