坊ちゃんの温泉

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[エッセイ 193](新作)
坊ちゃんの温泉
 
 ・・・四日目の晩に住田と云う所へ行って団子を食った。此住田と云う所は温泉のある町で城下から汽車だと十分許り、歩行いて三十分で行かれる、料理屋も温泉宿も、公園もある上に遊郭がある。・・・
 おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行く事に極めて居る。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉丈は立派なものだ。・・・温泉は三階の新築で上等は浴衣をかして、流しをつけて八銭で済む。其上に女が天目へ茶を載せて出す。おれはいつでも上等へ這入った。・・・(原文のまま)
 
 これは、夏目漱石の「坊っちゃん」に出てくる道後温泉に関するくだりである。この小説は、明治39年(1906年)、雑誌「ホトトギス」の4月号に掲載された。ここでは、道後温泉のことを住田の温泉と言い換えている。
 
 私たちが、四国一周の旅2日目に泊まったこの道後温泉は、三千年の歴史を誇る日本最古の温泉である。最も古い有名人では、596年(年号未制定)に聖徳太子が病気療養のために逗留したという記録があるそうだ。もともと、中心部に公衆浴場があり、まわりに浴場をもたない宿屋が何軒かあったという。

 その公衆浴場「道後温泉本館」は、この温泉地の中心的な観光施設でもある。明治27年(1894年)に造られた本館「神の湯本館」は、国の重要文化財にも指定され、宮崎駿監督の映画「千と千尋の神隠し」のモデルにもなった。明治32年(1899年)に造られた別館「又新殿」は皇室専用の浴場だそうだ。

 松山市内を、道後温泉を歩いてみてあらためて驚いた。あっちへ行っても坊ちゃん、こっちを歩いてもボッチャン、まるで古池に飛び込む蛙の音である。たまに、正岡子規と彼ゆかりの俳句ポストに出くわす程度である。こうまで利用されたのでは、漱石も墓石の陰で嘆いているのではなかろうか。

 道後温泉のある松山市は、わが故郷からは直線距離で一番近い大都市である。子供のころのラジオ放送は、電波の状態からもっぱら松山から発信されたものを聞いた。松山恵子の歌も一六タルトのコマーシャルも、みな南海放送から流されたものだった。顔は広島を向き、耳は松山の方角を向いていた。

 汽船でわずか1時間半。家内も私も、一番近い温泉として子供のころから馴染みが深かった。しかし、二人そろって訪問するのは初めてのことである。両親と一緒だったとき、あるいは仕事で訪れたときとはまた違う感慨があった。

 「坊っちゃん」から101年。いま読み返してみると、世情はもちろん言葉遣いまで、わずか百年で大きく変っていることに驚かされる。しかし、坊ちゃんが通いつめた道後温泉本館の佇まいは、113年間そのままの姿で風雪に耐えてきた。白鷺伝説に始まるこの温泉は、三千年もの間変ることなく湧き続けている。
(2007年12月18日)

写真は、道後温泉本館