クラシック音楽

[エッセイ 90] (既発表 1年前の作品)
クラシック音楽

 中学校から高校にかけて、NHK第2放送のクラシック音楽の番組をよく聴いた。いまの教育テレビで放送されているN響アワーではなかったかと思う。クラシック音楽が好きで、趣味で聴いていたとは思えない。おそらく、文化に対する一種のあこがれが、そのような背伸びをさせたのではなかろうか。

 当時の田舎の少年にとって、文化の香りとハイソサエティな雰囲気を伝えてくれる貴重な番組であったためだ。そのN響アワーを、いまはきわめて気楽な気持ちで毎週のように楽しんでいる。

 私は、いろいろなジャンルのクラシック音楽を選り好みしないで聴く。場所や時間帯あるいは気分にあわせて、バック・グランド・ミュージック的に聴くためである。聞き流しといっても過言ではあるまい。ただ、手持ちのCDレコードを整理してみると、ヴァイオリン協奏曲が意外に多い。それらにロマンチックな作風が多いためかもしれない。そのメロディの美しさで、私の好みはメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲ホ短調、作品64」に収斂される。

 ところで、この時代のヨーロッパの音楽だけを取りあげて、あえて「クラシック音楽」というのはなぜだろう。不思議に思って広辞林を引いてみた。クラシックミュージックとは、①ヨーロッパ音楽史で古典派の音楽。電灯と形式を重んずる。ハイドンモーツァルト・ベートーベン等。②大衆的音楽に対して芸術的音楽。とあった。
 
 古典派、あるいは伝統と形式美という定義であれば、それに該当する音楽は、日本はもとより世界中に存在する。それをヨーロッパに限定したのは、その普遍性、つまり世界中で広く通用するかどうかという点で大きく抜きんでているためであろう。

 それにしても、この時代の作曲家たちはこれほどの大作をよく一人でつくりあげたものだ。まるで、ジャンボジェット機を一人で設計するようなものではなかろうか。それも、風洞実験など一切のテストを抜きにして、製作即初飛行の一発勝負である。飛行機なら、その姿を絵に描いてみて飛べそうかどうかくらいは確かめることができる。しかし、クラシック音楽は、メロディだけならともかく、全体の絡み具合まで作曲段階でモニターすることは不可である。

 バッハ、ヘンデルそれにスカルラッティ。この1685年生まれの3人に、7歳年上のヴィヴァルディが加わってバロック音楽を勃興させた。以来200年、ストラビンスキーを最後に大作曲家といわれる人は出ていない。なぜ集中的に、ヨーロッパでこれほどの作曲家と作品が生まれたのだろう。なぜ今も多くの人の支持を得ているのだろう。20世紀生まれの大作曲家が出てこないのはなぜだろう。

 あまり深く考えないで、これからも気楽にクラシックを楽しもう。
(2005年3月5日)