開花宣言

[エッセイ 680]

開花宣言

 

 気象庁は2日前の3月29日、東京でサクラが開花したと発表した。その宣言は、ほかの地域でも次々と出されている。わが家のあたりでは、早いものは3~4分咲きに達したものもあれば、まだまったくゼロに近い状態の木もある。まさに、場所によって、木によって、状況は大きく異なっている。気象庁が、「標準木」などという基準を設けているのも、そうした理由にほかならない。

 

 ところで、その開花宣言の基準だが、気象庁では「標準木で5~6輪以上開花」の状態になったら宣言を発するそうだ。その標準木は、全国に58本が定められている。そして満開の定義は、「標準木で80%以上のつぼみが開いた状態となった最初の日を満開日」というそうだそうだ。

 

 今年の開花は、平年より5日、昨年より15日遅いそうだ。海の向こうの、岩手県と同じくらい北にあるワシントンのポトマック河畔のサクラが、3月中旬には満開になったというのに・・である。一方、古い記憶をたどっていくと、かつては今年の状況が当たり前だった。4月7日あたりの入学式の記念写真は、たいてい満開のサクラの前で撮るというのが慣例だったはずだ。

 

 それにしても、なぜ日本人はここまでサクラの開花に関心を持つのだろう。なぜ気象庁がサクラにかぎって、わざわざ「開花日」や「満開日」などを発表するのだろう。いうまでもなく、日本全体が春を待ちわびているからに他ならない。サクラは日本のシンボルであり、春を象徴する花である。日本人にとって、春は年度の始まりであり、希望の象徴でもあるためだ。

 

 日本人に限らないことかもしれないが、人々は平素の行動に区切りを付けたいと考えているのではなかろうか。春は、それに最も適した季節の変わり目なのかもしれない。厳しい冬を全力で乗り切り、やっと迎えた温かく希望に満ちた春こそ、それに最も相応しいときだと思われているのではないだろうか。

 

 いまひとつ、人々は一年のうち、どこかで息抜きをしたいのではなかろうか。そのためのきっかけが欲しい、口実が欲しいと考えてもちっとも不思議ではない。その点、春は人々の心がもっとも浮き立つときであり、周囲の環境もそれに相応しいと考えられるのである。美しいサクラの下で、うきうき・ワクワクしたくなるのは、理にかなった人々の自然な行動ということができよう。

 

 春の「開花宣言」こそ、そうした行動に対する神さまからのお許しの宣下であり、もう少し前向きに捉えればその号砲であるということもできる。活動の区切り、それの山と谷、行動の強と弱、・・これらはすべからく次の発展、繁栄の礎となるものである。これからの社会の繁栄のために、私たち個々人の体と心の健康のためにも、サクラをしっかりと楽しもうではないか。

                      (2024年3月31日 藤原吉弘)