地中の生きもの・セミ

[エッセイ 639]

地中の生きもの・セミ

 

 強い日射しとともに激しく降り注ぐセミしぐれ、あの強烈なエネルギーはどこから来ているのだろう。セミはどうしてそこまで生き急ぐのだろう。そんな素朴な疑問に背中を押され、あらためて昆虫図鑑を開いてみた。太く黒い胴体に透き通った羽根のクマゼミ、それをスマートにしたようなミンミンゼミ、そしてなぜかうさんくさくさえ見えてしまうアブラゼミと多種多様である。

 

 しかし、これらの絵図はわれわれが目にするセミの最盛期の姿ではあっても、その生涯の長さからいって彼らを代表するものではない。セミの一生は7年前後で、そのうちの6年くらいは幼虫のままである。あの羽根の生えた姿は最後の一週間ばかりの姿でしかない。あの姿は終末期のものであり、極端にいえばセミの見合い衣装であるとともに死に装束なのだ。本当にセミを代表的する姿を図鑑に表わすとしたら、地中にいる幼虫のそれを載せるべきである。

 

 では、地中の生きものであるはずのセミが、最後になってわざわざ地上に出てくるのはなんのためだろう。彼らは繁殖のため、立派な子孫を残すだけのためにあらゆるリスクを冒して地上に出てくるようだ。地中に暮らしていれば、他の仲間との出会いはきわめて限られたものになってしまう。視界はまったく利かず、繁殖相手を探すのは容易なことではない。それでは近親結婚に近い繁殖活動となり、種の繁栄にはあまり好ましいことではない。

 

 その点、地上は360度視界が利く。鳴き声もよく通る。おまけに、羽根まで備わっていて長い距離を自由自在に飛び回ることができる。最も優れていると思われる相手と繁殖活動を行うことができる。これほど繁殖に適した場所はないのだ。しかし、周りは外敵だらけで、鳥など他の生きものから襲われるリスクは極めて高い。もちろん事故に遭う確率も高い。それでも所詮、残り少ない命である。それらの危険をかいくぐってでもそれに倍するチャンスが得られるのだ。

 

 セミとは逆の発想に立っているのが海に棲むサケの仲間だ。彼らは、広い外洋を回遊しているので、繁殖相手との出会いに不自由することはないはずである。ところが、その自由を捨ててでも、わざわざふるさとの川に戻ってきて繁殖活動に入る。勝手な推測だが、彼らにはふるさとが、そして彼らなりのアイデンティティが欲しいのではなかろうか。ぎりぎりのところで、それぞれが受け継いできた血統を守り続けていきたいという本能がそうさせるのであろう。

 

 地中に棲むはずの生きもののセミが、その最期の場面だけ地上に現われる現象に、長い間それほど不思議とは思わなかった。しかし、こうして体系的に考えてみると、少しは納得がいったような気持ちになれた。あわせて、与えられた環境にいかに適応していくべきか、少しはヒントが得られたようにも思う。

                      (2022年8月26日 藤原吉弘)