仙台牛タン焼き

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[エッセイ 520]
仙台牛タン焼き

 6月初めに実現できた宮城県を巡る家族旅行の、最後の締めは仙台牛タン焼き定食と決めていた。その念願は、私たちが仙台在住当時に開業した仙台駅ビル「S-PAL」で、しかもそこで開業した「喜助」で果たすことができた。昼食時間をかなり過ぎていたので、すぐに席に着くことができた。

 厚目のタン焼きに、麦飯、味噌南蛮、それにテールスープが付いていた。子供たちは、それにトロロも追加注文した。柔らかく焼かれた牛タン、お義理程度に麦の混ざった麦飯、細切りされたネギの浮かぶ薄味のテールスープ、そして味そのものを忘れかけていた味噌南蛮、久し振りに味わう仙台グルメである。

 牛タン発祥の店といわれている「太助」は、私が仙台赴任当時から稲荷小路にあった。華やかな七夕飾りで有名な表通りの一番町通りと、バーやクラブがひしめく国分町通りに挟まれた細い路地である。洒落たバーより、縄のれんの下がった焼き鳥屋や赤いのれんのラーメン屋が似合う路地裏である。

 赴任当時、前任の支店長がたまに出張してきていた。その方はお酒に全く縁がなく、仕事が終わるとすぐ、「酒はいいから、タン焼き定食をご馳走してくれ」といっていた。その太助という店は、当時から結構繁盛していたが、地域限定の、隠れた名店の域を出ることはなかった。

 仙台牛タン焼きと、太助という店名が東京でも聞かれるようになったのは、私たち家族が仙台を離れ、東北新幹線が開通したずっと後のことである。東京にもそれに連なる店ができ、新橋に用事のあるときなど、ニュー新橋ビルの地下で、「助」という名の付く牛タン焼きの店で昼食をとるようになった。

 この牛舌(ギュウタン)という食材は、内臓(モツ)や尻尾(テール)とともに廃棄処分にさえなりかねない代物だった。戦後の食糧難の時代、その畜産の副産物を進駐軍から安く譲り受け、有効利用しようとしたのが始まりのようだ。仙台の稲荷小路で、「太助」という焼き鳥屋をやっていた佐野啓四郎という人が、1948年に始めたというのが定説になっている。

 タンの皮の部分をそぎ落とし、やや厚目にスライスして両面に浅く切り込みを入れる。それに塩コショウをふりかけ、数日間冷蔵庫でなじませる。客が来ると、それを目の前で炭火で焼いて出す。酒のサカナというより、メシのおかずとして提供していたので、当時の世相をそのまま反映した麦トロ定食となった。

 牛タン焼きは、やがて転勤族によって全国に伝えられるようになった。それに拍車をかけたのが、1975年に仙台駅ビルS-PALに開業した「喜助」の存在である。東北新幹線の開通とともに一気に全国に広がっていった。太助を頂点とした仙台牛タン焼き店は、いまや100店を超えるという繁盛ぶりである。
(2019年6月30日)