富岡製糸場見学ツアー

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[エッセイ 427]
富岡製糸場見学ツアー

 わが町内の自治会は、毎年秋に日帰りのバス旅行を行っている。毎回、バスの定員いっぱいの50名弱がそれに参加している。昨年の行先は東京スカイツリーだったが、今年は富岡製糸場になるだろうと予想されていた。富岡製糸場世界遺産に登録されたこと、さらには圏央道の開通によって、わが町から富岡まで高速道路一本でつながったことがその理由としてあげられる。

 そして、予想通り、今年の行き先は富岡と決まった。10月の上旬、私たち夫婦はその富岡製糸場の見学ツアーに参加した。その富岡に向かう道々、私は女工哀史について、そして山本成実さんの小説「あゝ野麦峠」の題材ともなった工女にまつわる哀しい逸話について考えていた。

 飛騨地方の貧農の、13歳前後の子女たちが、野麦峠を越えて岡谷あたりの製糸工場に工女として勤めに出ていた。工場の労働環境は劣悪を極め、長時間労働は当たり前だった。やっと正月の休暇をもらって、貯めた給料を懐に野麦峠を越えて実家へと帰っていく。仕事もそうだが、標高1672メートルのこの峠越えも、工女たちにとってはまた厳しい試練だった。

 このころ、生糸は日本の主要輸出品として、輸出総額の3分の1を担っていた。この富岡製糸場は、日本の製造業のモデル工場として、設備は整い工女たちも大切にされていたという。しかし、富岡の言い伝えと岡谷あたりの女工哀史ではあまりにも落差がある。はたしてそうだったのだろうか。同じ紡績工場であり、場所も岡谷と富岡では直線距離にして80キロしか離れていない。

 この富岡製糸場、着工は1871年(明治4年)、翌年の1872年(明治5年)には操業を開始した。この工場の敷地面積は53,738平米、生産能力は世界最大規模だったという。技術指導はフランス人10人ほどがあたった。この工場は官営としてスタートしたが、1893年(明治26年)には三井家に払い下げられ民間企業として再スタートした。1938年(昭和13年)には片倉製糸紡績に経営委託され、以降片倉グループのもとで操業が続けられた。

 1987年(昭和62年)、とうとう操業を停止し、115年間の歴史に幕を下ろすことになった。しかし、操業停止後も同社のもとで大切に保存管理されてきた。2006年(平成17年)国指定の史跡となった後、建物一切が富岡市に寄贈された。そしてついに、2014年(平成26年)6月世界遺産に登録された。この年の12月には国宝にも指定されている。

 工場の建物や設備の保存状態は大変良く、私たちは納得のいく見学ができた。それにしても、明治の初めにこのような立派な工場が稼働していたこと自体大変な驚きであった。今回は、日本近代化の幕開けを実感する旅となった。
(2015年10月10日)