十六夜の月

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[エッセイ 406]
十六夜の月

 中秋の名月を愛でることができなかったら、十六夜の月を見逃さないようにするのが風流人の務めだという。私は、そんな高尚な趣味は持ち合わせていないが、美しい月が望めるなら、えせ風流人くらいにはなってみたいと思っている。事実、中秋の名月が台風に台無しにされ大変残念に思っているからだ。

 旧暦8月16日のこの日、台風一過の空は、朝からきれいに晴れわたっていた。しかし、時間が経つにつれだんだん雲が広がってきた。陽が落ち、空の様子は分からなくなってしまったが、雲の隙間から月くらいは見られるだろうと思っていた。淡い期待を抱きつつ、前日よりやや遅いはずの月の出を待った。

 夕食後、お目当ての場所まで行ってみた。明るいうちに目星をつけておいたススキの生えている場所である。名月に、ススキをあしらった写真を撮りたかったからだ。しかし、あたりは真っ暗で、月が透けて見えるような気配はなかった。こうなったら、翌晩の立待月を待つしかない。

 NHKの、午後9時のニュースで錦織選手の残念な結果を聞いたあと、用事を思い出して二階に上がっていった。すると、真っ暗なはずのガラス窓から月明かりが漏れていた。急いで雨戸を開けてみた。気がついてよかった。間違いなく、薄雲の隙間に十六夜の名月が鎮座していた。

 ところで、「十六夜」をなぜ「いざよい」と読むのだろう。いままで、そんなことは考えてもみなかったが、急に不思議に思うようになった。さっそく、手元の広辞林を開いてみた。「いざよい」とは、いざようこと。ためらうこと。ちゅうちょ。と説明されていた。

 辞書にはもう一つ、「いざよいの月」とは、ためらって十五日の月より遅れて出る月の意。または、夕方になっていざよっている間に出る月の意ともいう。とあった。一方、インターネットでは、“満月の翌晩は月の出がやや遅くなるのを、月がためらっていると見立てたもの”という説明もあった。

 私が、二階から下りてしばらく経ったころ、今度は家内が所用で二階に上がった。「お父さん。月がくっきり見えるよ!」。私も急いで二階に上がってみた。空を覆い尽くしていた雲はきれいに吹き飛ばされ、深い暗闇の中に十六夜の月がぽっかりと浮かんでいた。

 急いでカメラを取り出し、あれこれ構図を工夫してみた。しかし、バカチョンカメラではどうしても絵にならない。かといって、いまさらあのススキの場所までは行く気になれない。そこで思いついたのが、香港土産の帆船の置物である。「この船で、かぐや姫が月に帰って行ったと空想することにしよう!」。

 かくして、“かぐや姫十六夜の月へのご帰還の図”が出来上がった。
(2014年9月10日)