青野川の河津桜

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[エッセイ 339]
青野川の河津桜

 河津町に桜見物に行ったとき、地元の植木屋にこんなことをいった。「そんなにたくさんの苗木を売っていたら、全国どこででも河津桜を見ることができるようになって、河津に来る人がいなくなるんじゃないの!」。もう一昔以上も前のことである。それでも、いまもたくさんの人が河津に押し掛けている。

 その河津桜は、地元の飯田勝美氏が昭和30年に河津川沿いで偶然発見したものだ。その幼木を自宅に持ち帰り大切に育てていたところ、昭和41年1月下旬に初めて花をつけた。調べてみると、大島桜と寒緋桜が自然交配して生まれた新種だと分かった。そして昭和49年、それは河津桜命名された。2月上旬から3月上旬が花の時期で、濃いピンクの花が1カ月以上も咲き続ける。

 早咲きの河津桜ですっかり有名になった河津町だが、あまりにも大勢の人が押し掛けるので、花見の風情はすっかり薄れてしまっている。なにしろ、気候は温暖、交通は至便、そして温泉など多くの観光資源に恵まれている。遊歩道は都会並みの雑踏と化し、車道は駐車場を探す車で渋滞をきわめる。

 その河津町に、今年も行くかどうか迷っていた。そんなとき、近所の人から耳寄りな話を聞いた。数日前に訪れた青野川沿いの河津桜が素晴らしかったというのだ。さっそくインターネットで調べてみた。下田からさらに10キロばかり、伊豆半島の南端・石廊崎の手前にそのとっておきの場所はあった。

 青野川と呼ばれる川が、緑の山あいを地形に沿ってゆるやかに蛇行している。流れは広く、ゆったりとしている。盛土の両岸には黄色い菜の花が生い茂り、河川敷へとなだらかにつづく。コンクリートや石垣などの人工構造物は草に隠れ、あたりの建造物は樹木にさえぎられてほとんど目に入らない。

 その河口近くの両岸、延べ4キロにわたって800本もの河津桜が植えられている。木はすでに大きく育ち、本場のそれと遜色はない。おそらく、河津町で植樹が始まってそう遅くない時期に、こちらにも植えられたのではなかろうか。いまでは風格さえ漂わせ、ちょうど満開の時期を迎えていた。

 国道136号線と青野川との間に「下賀茂温泉 湯の花」という道の駅がある。そこが桜見物の拠点である。駐車場はほぼ満杯だが、広い川原に人影はまばらでしかなかった。見どころはここだけではなかった。すぐそばの、5万平米にも及ぶ休耕田は菜の花の黄色い絨毯で覆われていた。桜の濃いピンクと鮮やかな黄色が見事なコントラストを演出し、私たちを存分に楽しませてくれた。

 ここに河津桜を植えようという先達の決断は、こうして自然豊かな名所をつくりだした。あれから10日、あの植木屋から買ってきたかもしれないわが家周辺の河津桜たちは、やっと三分咲きまでこぎつけた。
(2012年3月18日)