有楽町今昔

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[エッセイ 270](新作)
有楽町今昔

 「西武」有楽町店が閉鎖されるそうだ。10年前、「そごう」有楽町店が閉鎖されたのに次いで、また1つこの町の有名デパートの火が消える。

 私が上京した昭和32年(1957)、駅の西側にそごう有楽町店が華々しくオープンした。翌年には、「君の名は」で一躍有名になった数寄屋橋の架かる外堀が埋めたてられて西銀座デパートが生まれた。銀座の単なる玄関口でしかなかった有楽町が、フランク永井の「有楽町であいましょう」のヒットとあいまって、魅力的な盛り場として大きくクロ-ズアップされることになった。

 その西銀座デパートと有楽町駅の間には日劇があった。私も、上京早々新聞販売店から入場券をもらって日劇のラインダンス(NDT)を見にいった。その日劇では、翌年あたりからロカビリーブームが吹き荒れるようになり、「日劇ウェスタンカーニバル」は社会現象にまで盛り上がっていった。

 いつの間にかロカビリーブームは下火となり、日劇のラインダンスも時代に取り残されて40年の伝統に幕を下ろすときがきた。4年後の昭和56年(1981)、長い歴史をもつ日劇はついに建物もろとも取り壊されてしまった。この現象は有楽町だけのものではなかった。翌昭和57年(1982)には、浅草の国際劇場とSKDも同じ運命をたどることになる。

 昭和59年(1984)、その日劇朝日新聞などの跡地に有楽町マリオンという再開発ビルが建てられた。建物の中央に、有楽町駅から銀座方面に抜けられる自由通路が設けられ、それを挟んで西武と阪急の両デパートが入居した。“2つも”とは思ったが、相乗効果で一時はそれなりに繁盛していたようだ。

 ところで、この有楽町という地名は織田信長実弟・織田有楽の屋敷があったことに由来するといわれている。数寄屋橋はその数寄屋風茶室があった場所だという。しかし、織田有楽が江戸に住んだという記録はどこにもないそうだ。

 デパート業界の凋落がささやかれて久しい。業界全体の売上高は最盛期の3分の2にまで落ち込み、いまもその傾向に歯止めがかからないという。その不振店の閉鎖と街の空洞化は社会問題として連日のように報道されている。西武有楽町店の閉鎖もその流れの中にあるとみられるが、この店は1万5千平米ほどの小型店で、もともと魅力ある店づくりは難しかったのではなかろうか。まして、同じような中途半端な店が2店並んでいたのではなおさらである。

 しかし、打開策がないわけではない。そごう有楽町店と入れ替わりに出店したビックカメラは、開店後1年で破たん直前のその店の2倍の売り上げを記録したという。西武の閉鎖による有楽町界隈の地盤沈下をどう食い止め、にぎわいをどのように取り戻していくか、私たちも期待をもって見まもっていきたい。
(2010年2月1日)