格安理髪店

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[エッセイ 161](新作)
格安理髪店

 近所の庭に植木屋が入っていた。見ていると、マキやカイズカイブキは、チェーンソーを使って手早く形を整えていく。落とされた小枝は、携帯送風機で吹き飛ばしながら片付ける。その流れるような手際のよさに、味けなささえ覚えてしまう。

 どこかで見かけたと思ったら、格安理髪店の光景であった。裾の方から、髪をクシでうかせながらバリカンで切りそろえていく。一回り終えると、今度はハサミで仕上げにかかる。
 
 調髪が終わると、髪の間に引っかかっている切りくずを、ヘアドライヤーで吹き飛ばす。カミソリは、耳の周りと後頭部にだけあてる。熱いおしぼりで顔面を拭ってくれたら、それが終了の合図である。この間10分あまり、お代は千円ぽっきりであった。
 
 こうした格安理髪店の活躍は、私たち庶民の大きな助けになっている。ひげは今朝剃ったばかりだ。洗髪は入浴のときついでにやればすむ。どうせ一日も経てば、手間をかけてもかけなくても、結果はたいして変りはしない。
 
 しかし、このスタイルの店はそのわりには普及していない。我が家の周辺にも十指にあまる床屋があるが、格安店はこの一軒だけである。その店も、お世辞にも繁盛しているとはいえない。逆に、従来からの店はほどほどに客があり、それなりに成り立っている。
 
 休日の貴重な時間、週刊誌を読みながら気長に順番を待つ。首から上を、時間をかけてくまなく磨きたててもらう。オヤジがもちかける世間話には、他では味わえない面白さがある。

 この一見無駄とも思えるひとときが、戦士たちの安息の時間になっているのかもしれない。給料が安いと愚痴りながら、それでも格安店の3倍以上の料金を容認しているのは、そうしたところに価値を認めているためであろう。
 
 日本の三次産業の労働生産性は、世界から大きく見劣りしているといわれる。しかし、小売業を例にとっても、スーパーやコンビニは全国に展開し、その運営システムは世界レベルにあると聞く。自動販売機の普及だってトップ水準にあるはずだ。この産業も、労働生産性は大きく向上していると判断したい。
 
 しかし、パート化、アルバイト化などによって平均賃金は下がり続け、合理化努力は置いてきぼりをくらっているかもしれない。一方の、消費者意識の改革もそれほど進展しているとは思えない。

 私たちの前には、理髪店の両極のサービス形態が並存している。これをモデルに、サービスのあり方と労働生産性について考えてみてはどうだろう。
(2007年3月2日)

写真は、やっと順番の回ってきた寒緋桜