韮山反射炉

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[エッセイ 486]
韮山反射炉

 エッ、これだけ?これを見るだけで500円?そこには、レンガ造りの煙突と思われる大きな塔が4基建っているだけだった。崩れないように鉄のフレームで補強されているが、それが災いしてか、その建造物はお世辞にも美しいとはいえなかった。世界文化遺産韮山反射炉を訪れたときの第一印象である。

 この韮山反射炉は、幕末に建てられた大砲の工場である。その大砲は、江戸を外国の侵略から守るために湾内に造られた海上砲台に設置するためのものである。工場は、当初下田に建設されようとしていたが、機密保持に難点があったため、このプロジェクト担当の代官江川英龍の地元である韮山に移された。

 大砲工場は、銑鉄を溶かす反射炉と呼ばれる溶解炉と、溶けた鉄を型に流し込んで砲身を造るための鋳型とその置き場、そしてその砲身の中心をくりぬいて筒状の大砲に仕上げるための細工小屋からなっていた。大砲工場のメイン工程はもちろん反射炉であり、現存する設備はその建造物だけである。

 大砲の材料となる銑鉄は、鉄鉱石から直接製造した粗鋼で、不純物を多く含んでいる。その銑鉄を溶かして不純物を取り除き、大砲を作るためには千数百度の高温が必要である。反射炉は、天井部分が浅いドーム型になっており、そこに熱を反射集中させることによって高温を実現することができる。

 韮山反射炉はこの溶解炉を4基備え、良質の溶解鉄を大量かつ効率的に生産できた。溶解された鉄は、すぐ隣の鋳型に流し込まれて砲身に成形されたのち、冷まされて水車小屋に移される。そこで、水車の動力を使って砲身を回転させながら、3週間近くをかけて中心部をくりぬき筒状の大砲に仕上げる。

 それにしても、幕末の大砲工場がなぜ世界文化遺産に指定されたのだろう。たしかに、大砲という兵器は文化とは距離がある。しかし、その技術は明治以降の産業発展の基盤となったことは間違いない。古来より、軍事技術の発達が平和産業の発展を引っ張ってきたといわれるがここでも例外ではなかったようだ。

 このように、韮山反射炉は、明治日本の産業革命の基盤となった。まさに、世界に誇る文化遺産である。しかし、見学を終えた後も、その価値にはなぜか納得がいかないままである。見学に先立って、映像による8分間の解説があり、ボランティアガイドの親切丁寧な説明を受けたにもかかわらずなのだ。

 あの古ぼけた遺構を前にいくら丁寧な説明を聞かされても、反射炉の技術開発と日本の産業革命の進展には距離がありすぎてうまく結びつけて考えることができなかった。両者がどのようなプロセスを経て結びつき、世界の大国へと発展していく原動力となったのか。一般人にも、簡単に理解でき、具体的なイメージを描くことのできるヒントがあればさいわいである。
(2018年5月23日)