神になった若者たち

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[エッセイ 153](新作)
神になった若者たち

 神風特攻隊の基地のあった鹿児島県・知覧に、一軒の小さな食堂があった。富屋食堂と呼ばれ、鳥濱トメさんという中年の女性が切り盛りしていた。
 
 トメさんは、家族とはなれて出撃を待つ若者たちに母親のように慕われていた。人に明かすことのできない若者たちの悩みや苦しみあるいは恐れに、トメさんは慈愛をもって耳をかたむけ、彼らをやさしく見守りつづけてきた。太平洋戦争末期、昭和20年の春から初夏にかけてのことである。
 
 霧島と指宿の温泉でリフレッシュしたあと、旅の最後に立ち寄ったのがこの知覧である。昭和17年3月、その地に大刀洗陸軍飛行学校知覧分校が置かれた。昭和20年の4月から6月にかけて、ここを基地に、多くの若者たちが神風特攻隊として沖縄戦にむけ飛び立っていった。

 神風特攻隊は、昭和19年10月のフィリピン・レイテ沖海戦がきっかけであった。日本軍の航空戦力は、それ以前の台湾沖航空戦やミッドウェー海戦などで壊滅的な打撃を受けていた。圧倒的優位にある米軍の航空戦力を、一時的にせよ封殺して海戦に勝ち残るには、敵空母を使用不能にすることである。

 そこで編み出されたのが、特攻機による敵空母への体当たりであった。しかし、若者たちの奮戦もむなしく、この史上最大の海戦は米軍の圧勝に終わり、フィリピンは奪還されてしまった。日本海軍は、この海戦を最後に組織的な抵抗が不可能となり、神風特攻隊という体当たり戦法だけが残った。
 
 神風特攻隊の戦法は、沖縄戦で最も多く使われた。特攻隊による沖縄戦の戦果は、敵戦艦の撃沈26隻、損傷164隻、そして敵の戦死者は4,907名といわれている。一方、日本側の特攻による戦死者は6,000名超、うち1,000余名が知覧から出撃していった若者だそうだ。

 知覧を離陸し南に機首を向けると、すぐにも左手前方に開聞岳が見えてくる。富士にも似たその勇姿に、翼を振って最期の別れを告げると、あとは一世一代の晴れ舞台へと一直線に突き進んでいくだけである。

 このとき、彼らの心境はどのような状態にあったのだろう。国のため、愛する人のために一身を捧げることを無上の喜びとしていたのか。すでに無の境地に達し、無心に突き進んでいったのか。あるいは、最後まで恐怖と戦いつづけていたのだろうか。

 特攻基地の跡には、知覧特攻平和会館という建物と関連施設が整備され、神になった若者たちの遺品などが展示されている。若者たちとトメさんのふれあいの舞台となったその食堂は、いまは資料館として町の中心部に残されている。

 60年後、彼らの前で不戦の誓いをあらたにしたことはいうまでもない。
(2006年12月8日)

写真、上は、知覧特攻会館脇に建つ特攻の像
    下は、その傍らに立つ母の像