高校・母校にまつわる思い出

[エッセイ 673]

高校・母校にまつわる思い出

 

 高校の母校出身者は、関東地方にたくさん在住している。そのため、独自に同窓会を組織し、卒業生相互の親睦を深めている。その年次総会にあわせて、機関誌も発行している。コロナ以降2回目となる今秋の機関誌には、私にも寄稿の要請があり、母校と母の思い出が重なる部分について筆を執ってみた。

 

  「親子二代にわたって仰ぎ見た甲ノ山」

 ・・・私の実家は内浦にありますが、幸いなことに、甲ノ山を母子二代にわたって日々仰ぎ見る生活を送ることができました。“母子”といえば母親が先で子供が後というのが普通ですが、この場合は子供が先で母親が後になりました。

 

 その甲ノ山を先に仰ぎ見ることになった私は、1957年までの3年間、あの山の中腹の校舎に通いました。後からあの山を仰ぎ見ることになった母は、2006年8月までの2年2カ月間、老人保健施設さざなみ苑でお世話になりました。私より母の方が、およそ半世紀も後になったわけです。

 

 さざなみ苑は、橘病院と同じビルの3、4階にありました。わたしたちが走り回った運動場の、東側の海を埋めたてたところです。帰省のときは、現住所からそこに直行し、母を実家に連れ帰っては2~3日間息抜きをさせていました。母は、私の作る粗末な料理を、“美味いのう!”といってよく食べてくれました。

 

 あるとき、母は病気をこじらせて、2フロア下の橘病院に入院したことがあります。その時は、実家から病院まで高校時代同様自転車で見舞いに通いました。あの、立岩の脇の坂道のきつかったことをあらためて思い知らされました。

 

 かくして、私たち母子は、同窓生みんなのシンボルである甲ノ山を、二代にわたって毎日仰ぎ見る生活を送ることができたしだいです。・・・

 

 私のふるさと周防大島は、金魚の形をして周防灘に西向きに浮かんでいる。その金魚のおでこに当たる部分が、全長1,020メートルの国道橋で本州と繋がっている。私たちは、島の本州側を内浦、四国側を外浦と呼んでいるが、わが実家は内浦に、母校は外浦にあって通学以外あまり行き来することはない。そんな地理的条件にありながらも、母子ともに外浦と深い縁があったというわけである。

 

 母子共通の話題の舞台は、外浦の一番大きな町の中央部、湾内に突き出た小さな半島だった。そこは甲ノ山と呼ばれる標高100メートルあまりの小山になっており、校舎はその中腹に、運動場は東側の海を埋め立てた所に整備されていた。半島の美しいシルエットと、瀬戸内海の絶景が織りなす景勝の地であった。

 

 わが同窓会の機関誌にもその名前が引用されるほど、甲ノ山は同窓生にとって象徴的な存在であった。そんな素晴らしい眺めを共有できたことを、母との温かい思い出として大切に胸にしまっておきたいと考えている。

                     (2023年11月27日 藤原吉弘)