木に咲く初花

[エッセイ 647]

木に咲く初花

 

 冬に入ってこのかた、散歩の折に上空を眺める機会がめっきり少なくなった。落ち葉をカサカサと踏むのが楽しくて、足下ばかり見つめているためではない。木に咲く美しい花がなくなってしまったためだ。もちろん、紅葉の美しい晩秋には、その気がなくても赤や黄色の葉っぱたちに誘われてつい上を眺めてしまう。しかし、それらが終わってみると、上空を眺めても枯れ枝ばかりでなにも楽しめるものはない。そんなわびしさを埋めるように新たなスターが現われた。

 

 最初に姿を見せたのはツバキである。まずは、分家のサザンカに前座を務めさせ、本家筋と目される椿は年の瀬を目安に悠然と現われてくる。この木は、鎌倉時代から室町時代にかけて花木として鑑賞されるようになった。その風情と茶道のワビが共鳴したためであろうか、茶道の勃興期にあたる室町の後半あたりから、椿は茶席の大切な脇役を勤めるようになった。そんな地味な存在でも、私たちにとっては年の暮れを彩るまぶしい存在である。

 

 年が明けてから、天神様の境内に現われるのがウメの控えめな花である。梅は春を呼ぶ花、サクラは春を謳歌する花といえる。桜がハタチ前のおてんば娘なら、梅は落ち着きのある大人の女性といったところか。風情のある枝ぶり、控え目な可憐な花、それでいて一本一本、一輪一輪がちゃんと個性を発揮している。花が終われば律儀に実をつける。芯の強さがひときわ光る。気が付けば、花も実もあるその人は、いつもあなたのそばにいる誰かさんのようでもある。

 

 ウメと歩調を合わせるように現われるのがロウバイである。これらの木の枝振りは、どう見ても梅にしか見えない。梅の花が黄色く突然変異したのではないかとさえ思わされる。さらには、その名のとおり蝋細工ではないかと錯覚させられる。それも、実に精巧に作られているように見える。無表情で仮面のようだが、それでいてしっかりと命あるものの美しさを備えている。このロウバイ、漢字では蝋梅と書かれるが、梅ではなくクスノキ(楠)の一種だそうだ。

 

 こうしてみてくると、雅な紅葉の秋から無味乾燥な冬を経て華やかな春へとつなぐには、それなりのしっかりとしたリリーフ役が必要なようだ。雅と華やぎを直接繫いだのでは、変化に乏しくあまりにも節操がなさすぎる。やはり、両者の間には明確な区切りが必要であり、そのくびれともいえるつなぎ部分は、締まっているほど両者の見栄えは際立ってくるというものである。

 

 木に咲く初花、ツバキ、ウメ、そしてロウバイたち。秋の雅から春の華やぎへとつなぐ大切なリリーフ役として、しっかりと愛でていきたいものである。

                         (2023年1月19日 藤原吉弘)