3ヵ月ぶりのゴルフ

[風を感じ、ときを想う日記](1241)3/5

3ヵ月ぶりのゴルフ


 一昨日の日曜日、3ヵ月ぶりにホームコースの月例コンペでゴルフを楽しんだ。寒い間は体にもよくないだろうと、熊や虫たちと同様“冬眠”を決め込んでいた。その一週間前、コースのプレー仲間から“もう、ぼつぼつどうだ!”とお誘いがあり、2日後の「啓蟄」を前に冬の眠りから覚めることにした。

 

 ところで、このコースでは、公式コンペへの参加を3ヵ月以上空けると、再開後最初の大会では入賞資格がないという決まりになっている。もちろん、これだけ長い間素振り一つやらないでいいスコアなど出るはずもないが、一応確認してみることにした。結果は、“今日まではOK”ということだった。

 

 冗談のつもりで聞いたのだが、資格があるとなると気持も多少は高ぶってくる。そのせいだろうか、1番、2番ホールともにびっくりするようなショットが出た。“熊と寝ている間に腕が上がったのかねえ”、“寝る子は育つというが、少しは成長したのかねえ”などと冗談を言いながらうれしくなっていた。

 

 しかし、一夜漬けの薄いメッキはすぐに剥がれる。3番ホール以降はすっかりもとのペースに戻ってしまった。それでも、まるまる3ヵ月間空けていたわりには結果は悪くなかった。ひょっとして、昨年4月下旬に行われたスポンサーつき大会の、優勝の再来もあるかもしれない。“人間、いくつになっても希望を持ち続けるべきだ”などと自身にいい聞かせつつ、軽い足どりで家路についた。

閏(うるう)

[風を感じ、ときを想う日記](1240)2/29

閏(うるう)

 

 今日2月29日は4年に一度しかない珍しい日である。普段、閏年や閏月といった言葉はよく耳にするので、この日のことは「閏日」というのかと思ったが手元の辞書にはそれは出てこない。もちろん「閏」という字は存在し、“平年より暦日が多いこと”と説明されている。ちなみに、ネットには出てくるので、“全くない”と閏日の存在そのものを否定することはできないようだ。

 

 現在、広く使われている太陽暦の閏の扱いについては、4年前にエッセイ542で取り上げているのでひとまず置いておくとして、ここでは陰暦での扱いについて触れてみたい。手元の辞書には、それについて次のように説明されている。

 

 「大陰暦では、平年を360日と定めて、これを12カ月に分けたが、太陽の運行と小差があって端数が出るために、その端数を積んで1カ月になったのを1年に加えて、1年13カ月とした。たいてい、5年に2度の閏ができ、19年つまり閏を7つ重ねていくと余分が全くないのでこれを一章と名づける」。時代小説を読んでいると、○○年○月閏の月等といった表現が出てきたりする。「エッ、結局いまでいう何月ごろ?」と、大いに戸惑ってしまう。

 

 いまの太陽暦の時代に生まれてよかった!とつくづく思うが、「あれ?今日は3月1日ではなかったの?」といったとんちんかんな会話や多少の戸惑いは残る。それでも、頭の老化防止には、これくらいの気遣いはしかたないだろう。

 

(ご参考)[エッセイ 542]

閏年

 

 今年は、閏年であるとともに十二支が先頭に戻って新たなサイクルに入った年でもある。もちろん、待ちにまった東京オリンピックの開催されるオリンピックイヤーでもある。閏年、十二支、そしてオリンピック、この三者が2020年という切りのいい年に出会うことになにか因縁めいたものさえ感じさせられる。

 

 1年が365日であることはみなよく知っている。ところが、実際の1年の長さは365.2422日で、少しずつずれが出ている。そのずれの調整方法がきちんと決められたのは、つい数百年前のことである。ローマ教皇グレゴリウス13世が、当代を代表する学者を集めて研究委員会を設け、1582年にグレゴリオ暦として制定した。以降、通称西暦として各国で採用されるようになった。

 

 その暦では、余分な0.2422日の端数調整に、400年に97回の閏年を設けて対応することにしている。閏年の割り当て方には3つの原則がある。

原則―1、西暦年が4で割リ切れる年は(原則として)閏年

原則―2、但し、西暦年が100で割り切れる年は(原則として)平年。

原則―3、但し、西暦年が400で割り切れる年は必ず閏年

 

 この原則でいくと、西暦1900年=平年、2000年=閏年、2100年=閏年、2200年=平年ということになる。実は、この調整措置をとってもなお、3320年当り1日の誤差が出る。その誤差の影響は微小と考えられるので、対応策は後世に委ねることにしたようだ。但し、ギリシャ正教会の修正ユリウス暦では、上記原則―3をさらに修正することでほぼ決着がついているという。

 

 十二支が閏年に当たるのは、子年、辰年そして申年の3つに限られる。ただし、そのサイクルのスタートが常に閏年から始まるといっても、両者の関係は単なる偶然でしかない。十二支が12年サイクルであり、4年に一度という閏年のサイクルの倍数にあたるためというだけのことである。

 

 オリンピックイヤーと閏年につてもその一致は単なる偶然でしかない。第1回のオリンピックギリシャ大会が1896年に開催され、その年がたまたま閏年だったことから、以降どちらも4年サイクルで併走しているだけのことである。それでも、「閏年にはオリンピック、オリンピックの年は閏年」というのは判りやすく覚えやすくていい。

 

 それにしても、偶然の一致とは面白い。今年のような2020年という切りのいい年に三者がぶつかるというのはめったにあることではない。まして、それが東京オリンピックの年とはおめでたいかぎりである。次にこのような現象が現われるのは2080年、あと60年も待たなければならない。そのときも、東京でまた、3三度目のオリンピックをやってもらうことにしたらどうだろう。

                               (2020年1月5日)

奥手のウメたち

[風を感じ、ときを想う日記](1239)2/25

奥手のウメたち

 

 わが家に2本あるウメの木は、いま花の盛りを過ぎようとしている。正月3日に、散歩の途中で初めて紅梅の開花を目にして以来、なんと50日も経っている。単に“ウメ”とひとくちにいっても、開花時期にはこれほど大きな開きがある。それだけ、ウメには多種多様な種類があるということだろう。

 

 わが家には、実のなる“豊後ウメ”と、ピンクと白の二色に咲き分ける“思いのまま”とよばれる二種類がある。いずれもそろって奥手で、いまやっとその花の盛りを過ぎたところである。いままで、いろいろな場所でウメの花を楽しませてもらってきたが、どうやらこれが今年の締めくくりとなりそうだ。

 

 わが家には、ピンクの花を付けるツバキの木が2本ある。しかし、その花のほとんどは葉っぱに隠れていまひとつパッとしない。おまけに、その美しい姿を写真に撮ろうとしても、すぐメジロのつがいがやってきて花びらを傷だらけにしてしまう。そんな惨状では、ウメの代りなどとてもさせられそうにない。

 

 そんなことから、わが家の庭の華やぎは、もっぱら2本のウメに頼ってきた。それらの花も、寒風と雨に打たれて、いまや終り寸前となった。ただこれからは、豊後ウメが実を付け始めるので、今度はその成長過程を楽しませてもらえる。熟したウメの実は、毎年ジャムにしているが、昨年作ったジャムは偶然にも今朝で食べ尽くしてしまった。ここしばらくは、代用品で我慢するつもりである。

引地川親水公園の河津桜

 


[風を感じ、ときを想う日記](1238)2/20

引地川親水公園の河津桜

 

 いまこうしている間も、部屋に暖房は一切つけてない。この辺りの予想最高気温が24度にも達するという暖かさのためだ。一方空模様は、“雨水”突入以来ずっとぐずつき、お天道様を拝めるのは今日くらいだという。そんな状況を考慮して、今朝早い時間に引地川親水公園へと向かった。50本あるといわれる河津桜が、見ごろを迎えているのではないかと考えたからだ。

 

 遠くからでも、あのピンクの色が目についた。やはりやって来てよかった。すでに、先着の花見客もたくさんいた。花は、七、八分咲きまで達していた。中には花びらを散らし始めている木さえ散見された。ここは南北に開けているので風通しがよく、気温は低めのはずだが、季節そのものがいつの間にかそこまで進んでいたということだろう。

 

 この引地川親水公園は、南北に流れる引地川の岸辺を公園として整備したものだ。巾はそれほどないが、南北にはおよそ1.6キロある。その北半分には両岸に4筋にわたってソメイヨシノが、南半分には片側だけだが2筋にわたって河津桜が植えられている。美しい桜が、時期をずらして二度楽しめるわけだ。

 

 かつて、この河津桜を見物するために、本場・河津町へ泊まりがけで10年近くも通った。その後も松田町や三浦海岸へと、せっせと足を運んだ。そしていまは、早春の色鮮やかな桜をこうして近在で気軽に楽しんでいる。

昨夜のクラシック音楽館

[風を感じ、ときを想う日記](1237)2/19

昨夜のクラシック音楽

 

 昨夜のNHKクラシック音楽館は、「追悼・・・マエストロ・小澤征爾」というウィーン・フィルとの2つの共演番組で構成されていた。2時間半もの長い番組なので、2002年のニューイヤー・コンサートの部分だけを聴いた。22年前の正月に、氏が実際にウィーン・フィルを指揮したときの録画である。

 

 この番組は毎年楽しみにしているので、私も日本人としての誇りを胸に視聴した記憶がある。あらためて映像を見ると、小沢氏もまだ若くはつらつとしていた。表情はいきいきとしており、体の動きに切れがあった。氏の最後の舞台となった松本市での、車いすでの指揮とはまったく別世界の様相であった。

 

 当時はまだ、日本がなしえた高度成長の余韻が残っており、客席にも多くの日本人客が見られた。もう一つ驚いたのは、この22年前の番組がワイド画面で制作されていたことである。古い録画はたいてい横幅が狭いのに、この番組は貴重な記録として今日があることを予期してのことだったのだろうか。

 

 大晦日の「紅白」と元旦の「ニューイヤー・コンサート」は毎年欠かさず見ているが、後者は元旦に発生した能登半島地震の影響で放送中止となってしまった。それでも、今年のニューイヤー・コンサートは後日二回にわたって放送されたようだ。昨夜の放送は、その三回目の再放送ではなかったが、今回の2002年のものはそれに倍する価値ある番組となった。・・・黙祷!

フキノトウ

[風を感じ、ときを想う日記](1236)2/18

フキノトウ

 

 知り合いからフキノトウをたくさんいただいた。なんでも、郊外を散策中に足下にたくさん芽吹いていたのだそうだ。梅が咲き、河津桜が開花しはじめてからというもの、上空ばかり見上げて歩いていたが、足下にも確実に春がやってきていたのだ。

 

 この日の夕食は、いただいた新芽を中心に、春の野菜でまとめてもらうことにした。メインディッシュは、そのフキノトウを主役に、サツマイモ、オクラ、そしてニンジンを脇役とした野菜の天ぷらである。さらには、箸休めとして“ふきのとうみそ”を作ってもらった。サツマイモの白、ニンジンの赤、そしてオクラとフキノトウの濃い緑と、香りばかりか彩りもきわめて豊かである。

 

 この日の主役を担わせることになったフキノトウは、天ぷらにすると一段と風味が豊かになる。もちろん、さくさくとした歯触りも申し分ない。そしてなにより、あの苦味とふくよかなかおりが春の到来を実感させてくれる。

 

 春は、いろいろな草木の新芽が楽しめる。ウド、コゴミ、セリ、ゼンマイ、タラの芽、ツクシ、ノビル、ワラビ、そして最後に登場するのが大物のタケノコである。ことに、春の遅い北国の人たちはこれらの新芽を大切にするそうだ。なんと、ゴルフのプレー中までそれを探し求める人たちがいたという。

 

 昨夜のフキノトウ料理のお陰で、また一段と寿命が延びたようだ。

河津桜・開花

[風を感じ、ときを想う日記](1235)2/12

河津桜・開花

 

 伊豆・河津町の桜が三分咲きになったという。その様子が、写真と共に今日の新聞に載っていた。写真は上空からのもので、河津川沿いを二筋のピンクの帯が連なっていた。そういえば、わが家の近所の河津桜もそろそろかもしれない。ここ4~5日足を向けていないので様子が変わっているかもしれない。

 

 さっそく、自動車教習所のところまで出かけてみた。やはり咲き始めていた。陽当たりのいい木の、それも条件の整った枝に、あのピンクの花が塊となって咲き始めていた。まだ一分咲き、いや実態は一分未満である。それでも開花していることに違いはない。いよいよこの辺りにも春のはしりがやってきたようだ。

 

 これなら、あのお宅の木はもっと進んでいるかもしれない。小高く盛り上がった修道院の丘の、南斜面に建てられたお宅の庭にそれは植えられている。ここ数年、そこを訪ねることを楽しみにしている取って置きのポイントである。すでに二~三分咲きの状態まで進み、メジロがさかんにその蜜を吸っていた。

 

 今年も、厳寒に体を震わせながら梅一輪を探し歩いてきた。ところが、立春も半ばにさしかかる頃になると、今度は桜の開花を追いかけることなる。以前なら、小田原の曽我梅林、湯河原・幕山公園の梅林、そして河津町河津桜と追いかけていたが、最近では近場で全部が間に合うようになった。ちょっぴり寂しい気もしないでもないが、うれしさとありがたさにはなんの変わりもない。