九月の風

f:id:yf-fujiwara:20210907080202j:plain

f:id:yf-fujiwara:20210907080311j:plain[風を感じ、ときを想う日記](1060)9/7

九月の風

 

 今月の「ゆうゆう通信」には、巻頭の挨拶として次のような小文を載せた。

 

 ・・・9月21日は旧暦の8月15日、中秋の名月にあたります。お猪口片手にゆっくりと楽しみたいものですが、必ず眺められるとは限りません。そこで、もしそれが叶わなかったら、翌晩の十六夜の月を見逃さないようにするのが“風流人”の務めだそうです。

 

 ところで、十六夜をなぜ「いざよい」と読むのでしょう。辞書には、いざようこと、ためらうこと、ちゅうちょすること、と説明されています。別の本には、満月の翌晩は月の出がやや遅くなるのを、“月がためらっていると見立てたもの”という説明がありました。

 

 十六夜の月は、完全な円から少し欠けており、かえって親しみが持てるのかもしれません。せっかくの名月です。いざようことなく、しっかりと秋の夜長を楽しみましょう。・・・

 

 ところで、今日は旧暦で8月1日、月齢は0歳、新月と呼ばれるまったくの闇夜である。月は、明日から少しずつ満ちていき、21日には満月を迎える。日が暮れると、ゆうゆう通信に書いた中秋の名月が東の空に現われる。

 

 当日必ず晴れるとは限らないが、こうした十六夜などという気の利いた予備日を設けてもらえると、気持ちも楽になるというものだ。

コロナ禍の認知症対策

f:id:yf-fujiwara:20210906163105j:plain

f:id:yf-fujiwara:20210906163244j:plain[風を感じ、ときを想う日記](1059)9/6

コロナ禍の認知症対策

 

 コロナ禍は依然深刻な状況が続いており、緊急事態宣言は出されたままである。わが藤沢市だけ取り上げてみても、9月5日現在の累積感染者数は6,468人で死者数は50人に達している。われわれ高齢者も、予防接種は完了したものの、グラウンド・ゴルフを始めほとんどの活動を自粛して巣ごもりに励んでいる。

 

 一方、藤沢市によると、市の人口は440,409人、うち65歳以上の高齢者は108,012人、そのうち認知症およびその手前の人は30,242人だそうだ。なんと、高齢者の28.00%、3.57人に一人がそれに罹っていることになる。市が把握しているだけでこんな数になるが、実態はもっと深刻な状況にあるかもしれない。

 

 市では、「おれんじキャンペーン」という認知症対策を掲げその推進に取り組んでいるが、われわれ当事者も真剣に取り組まなければならない。その大きなテーマは、体力、とくに脚力の維持と脳の活性化である。それを高齢者自身で簡単にできることといえば、歩くことと人と対話することである。

 

 そんなことから、われわれが取り組んできたグラウンド・ゴルフなどは、その条件に当てはまる格好の野外ゲームではないだろうか。ワクチン接種はみな終えており、しかも屋外で適度な間隔がとれ、三密とはほど遠い距離にある。

 

 いまは、緊急事態宣言に合わせて活動を休止しているが、その行方にかかわらずグラウンド・ゴルフだけでも早期に再開すべきではないかと考えている。

ナス

f:id:yf-fujiwara:20210904135541j:plain

f:id:yf-fujiwara:20210904135633j:plain[エッセイ 602]

ナス

 

 今が旬の秋ナスにはこんな諺がある。「秋茄子(あきなすび)嫁に食わすな」。①秋茄子はおいしいので、しゅうとめが嫁に食べさせたがらないという意。②食べると体を冷やすので、また秋茄子は種が少ないので子供ができないという縁起をかついで、嫁に食べさせなかったともいう。・・「ことわざの辞典」(三省堂)。

 

 一方、こんな文章もある。「せめて秋ナスくらいは、お嫁さんと仲よく味わって残暑を乗り切りたいものである」。これは、私自身が勝手に書いたもので、前号:エッセー601「処暑」の最後のくだりである。少々野暮ったいが、エッセーの「オチ」をこの諺の①の意味に引っかけたものである。

 

 ところで、その秋ナスとはどんなものなのだろう。春に植えたナスの茎はどんどん成長してたくさんの実をつける。しかし、その一方で枝も混み合ってくる。そこで、更新剪定をしてやると、新しい枝が出てきて秋にかけてまた立派な実をつけるようになる。それが秋ナスで、味もいっそうおいしくなるという。

 

 この更新剪定というのは、スタートのところにヒントがありそうだ。ナスは、熱帯地方では多年草だが、温帯地方では一年草で毎春あらたなスタートを切る。つまり、温かくなって種を撒くわけだが、接ぎ木苗という方法もあるそうだ。そして、この方が耐病性に優れており育てやすいという。それは、そのまま味にも通じているということではなかろうか。

 

 ナスの原産はインドで、中国を経て奈良時代に日本にやってきた。耐寒性は弱く、耐暑性はやや強いようで、生育温度は23~28度が適温だそうだ。初夢に、「一富士、二鷹、三茄子」というのがあるが、江戸時代、正月に初物を手に入れようすれば、1個1両もしたという。ビニールハウスのない時代、油紙障子に馬糞などの発酵材で適正温度を確保するのは大変なことだったようだ。

 

 ナスは、6月ごろから収穫期に入る夏野菜である。お盆には、キュウリとともに精霊牛馬という重要な役割も担うことにもなる。キュウリはご先祖様が現世に戻られるとき乗られる足の速い馬に、ナスはあの世に帰られるとき使われる足の遅い牛に見立てられている。現世に来るときはなるべく早く、あの世に帰られるときはゆっくりとという、今を生きるものの気持ちを反映したものだ。

 

 それにしても、ナスは焼く、煮る、揚げるなど、どのように調理しても美味しくいただくことができる。とくに、油との相性はすばらしく、和洋いずれの料理にも格別の力を発揮する。ナスは、夏ばての予防、生活習慣病の予防と改善、がんの予防と抑制、そして炎症や痛みの抑制に大きな効果があるという。

 

 子供の頃、母の手作りの辛子漬けをよく食べさせてもらった。そしていまは、ナス入りミートソースの冷凍パスタでその魅力を堪能させてもらっている。ナス、とくに秋ナスとはこれからも深いお付き合いをさせてもらう積もりである。

                       (2021年9月4日 藤原吉弘)

蒸散殺虫

f:id:yf-fujiwara:20210829161527j:plain

f:id:yf-fujiwara:20210829161626j:plain
[風を感じ、ときを想う日記](1058)8/29

蒸散殺虫

 

 寝室として使っている和室の蒸散殺虫をやった。寝ているうちに脇の下を数回虫に噛まれたので、畳の間に嫌な虫でも潜んでいるのではないかと思ったわけだ。以前一度やったことがあるが、そのときは家中を一斉に蒸散殺虫をした。まだ犬を飼っていたので、蒸散中、犬と一緒に公園で時間つぶしをした記憶がある。そんなことから、かれこれ20年ぶりということになるかもしれない。

 

 今日、殺虫剤メーカーの加熱蒸散殺虫剤という商品を買ってきた。部屋の中央で、底に水を張ったプラスチック容器に薬剤入りの缶を入れると、白煙が一気に広がってきた。もちろん、天井の火災報知器にはビニール袋でカバーをし、テレビなど大切なものはみな室外に運び出したうえでのことである。取説では、2時間以上部屋を閉め切ったままにしておくようにとのことだった。

 

 これで一安心というところだが、はたして嫌な虫はいなくなったのだろうか。ゴキブリに殺虫剤を吹きかけたら、目の前でコロッと死んだというのとはちょっぴり事情が違う。なにせ、いままで見たことのない虫である。死んだかどうか確かめようもないのだ。それでも、効果があったと信じるしかない。

 

 それにしても、得体の知れない虫?に噛まれるのではたまったものではない。その不安が少なくなったと考えられるだけでも幸せなことかもしれない。

処暑

f:id:yf-fujiwara:20210823173817j:plain

f:id:yf-fujiwara:20210823173919j:plain
[エッセイ 601]

処暑

 

 今日、8月23日とこれからの半月間は二十四節気でいう「処暑」である。いわば、“暑さもようやくおさまるころ”である。この処暑という熟語は、暑さが和らぐという意味で、暑さから解放されやっと一息つける時節になったということのようだ。ところが、実際には暑さはまだまだ続くようだ。たしかに向こう一週間は、最高気温が30度をはるかに超える日が続くと予報されている。

 

 理屈から言えば、処暑は夏というより秋に近い。夏の理論的な頂点である夏至と冬のそれである冬至を並べてみると、処暑はすでに立秋を越え半月分も冬至の方に近づいている。それでも、現実には「暑さ寒さも彼岸まで」といわれるように、暑さから逃れるにはあと1ヵ月も待たなければならない。地球がいかに大きいか、この1ヵ月半のタイムラグがそれを実感として教えてくれている。

 

 ところで、1年を24分割した二十四節気でいうこの処暑とは、どのような季節をいうのだろう。ものの本には次のように説明されている。厳しい暑さの峠を越えて、朝夕は涼風が吹き始める。上空は、夏から秋に移るころの暑気と冷気が行き交う「行合の空」と呼ばれる情景が現われる。入道雲が湧き上がっているところに、鰯雲や巻き雲が並んで姿を見せるといったシーンである。

 

 しかし、そんなロマンチックなことばかりではない。台風シーズンの真っただ中に突入したのである。あの「二百十日」は8月31日がそれに当たる。それに加えて、翌9月1日は大災害にもっとも気をつけなければならないという、関東大震災に由来する「防災の日」でもある。一方、この日は「八尾の風の盆」にもあたり、例年なら富山市の郊外が大勢の人で賑わう盆踊りの日でもある。

 

 風の盆といえば、石川さゆりさんのヒット曲「風の盆恋歌」が頭に浮かぶ。高橋治の同名の小説をもとにした悲恋ドラマの歌謡曲である。実際の盆踊りも哀調を帯びた胡弓の調べに乗って踊られるが、本来のねらいは台風を鎮めるために始められた行事で、それほどロマンチックなものではないはずだ。

 

 この時期は、そのような物騒な話ばかりではない。ちょうど、秋の七草が見ごろを迎えるのだ。その花とは、萩(ハギ)、尾花(ススキ)、桔梗(キキョウ)、撫子(ナデシコ)、葛(クズ)、女郎花(オミナエシ)、そして藤袴(フジバカマ)である。この七草には入っていないが、晩夏から咲き続けている酔芙蓉も、風の盆恋歌を盛り上げる重要な小道具として登場する。

 

 そして、この時期私たちの食欲を満たしてくれるのが、初秋の食材たちである。秋刀魚(サンマ)、茄子(ナス)、葡萄(ブドウ)、そして梨(ナシ)などである。しかし、サンマは近年不漁続きで庶民からは遠ざかるばかりだ。せめて秋ナスくらいは、お嫁さんと仲よく味わって残暑を乗り切りたいものである。

                      (2021年8月23日 藤原吉弘)

実感は晩夏

f:id:yf-fujiwara:20210821143915j:plain

f:id:yf-fujiwara:20210821144014j:plain
[風を感じ、ときを想う日記](1057)8/21

実感は晩夏

 

 実感ではまだ夏、しかも、一週間も続いた長雨をくぐり抜けてやっと取り戻した夏である。しかし、暦ではとっくに秋になっている。明後日には、「処暑」さえ迎えようとしているのだ。まさに、実感では「晩夏」、暦では「初秋」である。そういえば、昨夜眺めた月は十三夜、さすが秋の名月に相応しい美しさだった。

 

 近年、早朝に2回目の生理現象で起こされる。梅雨明けのころは、日の出を待っていたかのようにクマゼミがうるさく鳴き、ウグイスさえさえずっていた。ところが最近は、夜明けも遅くなり、セミの声もミンミンゼミだけになっている。美しい声のウグイスは去り、カラスがうるさく騒ぐだけである。

 

 季節について行けなくなったのはこの家の住人だけではない。庭に植えられた高齢のサルスベリが、今ごろになって最盛期を迎えた。一週間前に植木屋が剪定に来てくれたとき、花はまだまばらだった。植木屋は「枝を下ろしますか」というので、「いや、この木は奥手なので触らないで」といったばかりである。

 

 鉢植えのアサガオもまたしかりである。やはり植木屋に「まだ咲き出さないの」と馬鹿にされたが、「この花も奥手だから、いまに咲くよ!」と弁護したばかりだった。それが、ここ数日控えめながら数輪ずつ花を付け始めた。

 

 夏の花のはずが、秋の声を聞くようになってやっとエンジンが掛かり始めた。彼女らにとっては、住人同様いまが夏なのかもしれない。

朝からご機嫌な酔芙蓉

f:id:yf-fujiwara:20210819104854j:plain

f:id:yf-fujiwara:20210819105018j:plain

f:id:yf-fujiwara:20210819105122j:plain
[風を感じ、ときを想う日記](1056)8/19

朝からご機嫌な酔芙蓉

 

 この時期、花の種類は春に比べるとずっと少なくなる。そんななか、比較的華やかなのが木に咲く芙蓉である。実は、「芙蓉」とはもともと蓮(ハス)の花のことを指すようだ。そこで、それと区別する必要がある場合は、頭に木を付け「木芙蓉(モクフヨウ)」と呼ぶようだ。

 

 そしてもう一つ、花の時期は多少ずれるが、芙蓉は木槿ムクゲ)ともよく似ている。しかし、両者の違いは雌しべを見ればすぐに分かる。ムクゲはまっすぐ伸びているが、芙蓉の雌しべは多少湾曲しており先が5つに分かれている。

 

 ところで、本題の芙蓉だが、花は普通5弁であるのに対し、酔芙蓉と呼ばれる花は八重咲きである。しかも、朝咲き出しときは白い色をしているが、時間の経過とともに色づき、夕方にはすっかりピンクになる。あたかも酔っ払ったようになることから、芙蓉の頭に酔がつけられた。

 

 ところが、今朝写真に撮ってきた2種類の八重咲きの芙蓉は、片方は白いがもう一方は朝からきれいなピンクをしている。違う種類なのか、突然変異によるものなのか、調べて見たがよく分からない。しかし、夕方酔っ払って色づく花より、朝から色づいている方が色そのものは間違いなくきれいである。

 

 そこで、とりあえず「朝からご機嫌な酔芙蓉」と名付けておくことにした。