口蹄疫と江戸の火消し

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[エッセイ 284]
口蹄疫と江戸の火消し
 
 宮崎県で発生した牛や豚の口蹄疫は、関係者の必死の努力によってなんとか沈静化の方向に向かっているようだ。被害に遭われた方々が一日も早く立ち直れるよう祈るとともに、対策に奔走された関係者の方々には敬意を表したい。

 その口蹄疫の対策は、治療ではなく殺処分という蔓延防止策に徹せられた。感染力が極めて強く迅速な対処が必要なためであるが、感染したのが動物なので、それに対する姿勢は人間の伝染病対策とは決定的に違う。

 ところで、口蹄疫の対策を聞いていると、どうしても江戸の火消しを連想してしまう。江戸は人口が密集し、町や家屋の造りは火事にきわめて弱かった。江戸の大火と呼ばれるものだけで49回もあったという。なかでも、とくに有名なのが振袖火事とも呼ばれる明暦の大火である。明暦3年(1657)3月に発生した大火は江戸の町を焼き尽くし、犠牲者は6万8千人に上ったという。

 江戸にも消防組織はあったが、消火能力はきわめて貧弱だった。消火設備といえるものは龍吐水という手押しポンプくらいだった。もちろん、高い水圧の消火栓などどこにも備わっていなかった。必然的に延焼防止に力点を置かざるを得なかったはずである。江戸の火消し道具である、まとい、梯子、鳶口、刺又あるいは鋸といった品揃えがそれを如実に物語っている。

 江戸の防火対策は、明暦の大火をきっかけに急速に強化されたという。延焼を食い止めるために、火除地と呼ばれる防火帯を整備する一方、市民には板葺屋根に変えて飛び火に強い瓦葺屋根が奨励されたという。資金に余裕の出てきた商家では、土蔵造りがはやったとも伝えられている。

一方、消防組織の強化にも力が注がれた。武家には旗本の定火消と大名の大名火消が、町人には町火消という組織があり、最盛期には1万人以上が従事していたそうだ。町火消は、江戸市中に“いろは”48の組、対岸の本所・深川に16の組、併せて64の組が火事に備えたという。なお、いろはの内、語呂の悪い4字は漢字に置き換えたと聞く・・へ=百、ら=千、ひ=万、ん=本。

 江戸の火消しの活動は、延焼防止のための防火帯をいかに迅速に造るかという破壊消防に特徴がある。そのため、家を壊すための絶対権限とその保障の法的裏付けが必要であった。火消しの指揮官には、状況を的確に把握できる能力とそれにどう対処すればいいかの判断力、そしてそれを迅速・的確にやり遂げる実行力が要求された。

 口蹄疫にもまったく同じことがいえる。対応が後手に回れば、江戸の大火以上の速度で全国に蔓延していく。今回のことを教訓に、法的整備と対応策のさらなる充実を期待したい。火消しも口蹄疫対策も、先手必勝あるのみである。
(2010年6月27日)