稲作

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[エッセイ 187](新作)
稲作
 
 散歩中、稲刈りの現場に出会った。里山と住宅地に囲まれた狭い場所なので、昔とあまり変りのない風景である。それでも、私の子供の頃と決定的に違うものが二つあった。一つは、稲刈りの作業をしているのが大型のコンバインであること。そしていま一つは、田んぼの周囲に黄色い花のセイタカアワダチソウが我が物顔に生い茂っていることである。

 米は、その文字が示すとおり人の口に入るまでに八十八回の手がかかるといわれている。半世紀前には、私もその88回を手伝っていた。わが家には4枚の田んぼがあった。山あいに3枚、平地に1枚、全部あわせても1反7畝の小規模なものであった。母が一人で世話をし、それを子供の私が手伝っていた。

 そのころ、冬は大麦と小麦を、夏は米を作るのが普通であった。麦を刈り取った後の田んぼに、黒毛の牛を連れた親戚のおじさんがやってきた。田んぼはまたたく間にすき起こされ、代かきされて水田へと変わった。

 田植えは、親戚や近所の人の共同作業で行われた。ほどよく育った苗は、細いロープに等間隔に結び付けられた小さなリボンを目印に、数本ずつ植え付けられていく。植えられた苗の列は、タテもヨコもきちんと揃っていた。
 
 除草は、手押しの除草機で株の間を耕すのが中心であった。ただ、数回に一度は、四つん這いになって株の周りを手で除草しなければならなかった。腰は痛くなる、稲の葉先で目はつつくなど決して楽な作業ではなかった。施肥では、北海道のニシンを遠く離れたわが家でまで使っていたのが印象に残っている。話としては分かるが、ニシンはそんなにもたくさん獲れていたのだろか。
 
 消毒作業は、ホリドールやパラチオンといった強力な薬が出現して以降その様相は一変した。散布する人にも害があっようだが、それによってイナゴやタニシなどの生きものが根絶やしにされるなど生態系に大きな影響を与えた。
 
 一方、技術の進歩で作業は少しずつ楽になってきた。稲刈りの鎌もその一つであろう。最初のころは草刈鎌しかなかったが、ノコギリのような刃をした稲刈り専用の鎌が登場して以来みなが重宝するようになった。このころの機械らしい機械といえば脱穀機くらいであった。その足踏み式の回転するドラムは、子供にはちょっと怖かったが、そのうち慣れて喜んで手伝うようになった。
 
 それから長い年月が流れた。ある年、久しぶりに帰省してみると、幹線道路はダンプ街道に変わっていた。国の減反政策とみかんブームに呼応して、田んぼは次々と埋め立てられみかん畑に変身していった。
 
 いま、そのみかん畑の多くで耕作放棄が進み、竹の生い茂る原野に戻ろうとしている。もちろん、田んぼなどどこを見回しても見つけることはできない。
(2007年10月20日)