日本町

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[エッセイ 82](既発表 2年前の作品)
日本町

 調理師のパフォーマンスに、家内はもとより相席となったアメリカ人ファミリーも大喜びしていた。アメリカに行ったら、一度は寄ってみたいと思っていたエンターテイメント的な演出が売り物の鉄板焼きレストラン「紅花」でのことである。

 私たちが滞在していたのは、サンフランシスコの日本町の一角にある日系の中堅ホテルであった。足にギブスをつけた家内と一緒では遠出はできないので、2日目の夕食はその日本町でとることにした。昼間覗いたときは静かな佇まいをみせていたが、夕食どきは大変な賑わいであった。数ある日本食レストランはどこも満員、とくに回転すし店には長蛇の列ができていた。

 私の考えていたサンフランシスコの日本町は、横浜の中華街をベースにしたものであった。そこには日系アメリカ人があふれ、日本の一昔前の暮らしがある。現地の米国人もめずらしそうにやって来て、日本に触れたつもりで満足そうに帰っていく。ときおり日本からの観光客も訪れ、異国でのわが文化の変質ぶりに驚き広島弁的日本語に戸惑う。だが、現実のその町は私の想像とはまったく違うものになっていた。

 日本町といっても、最新の調査では日系人は1千63人しか住んでいない。その町の人口は1万1千6百人なので、日系人は一割にも満たない少数派でしかない。サンフランシスコ市内に在住する日系人は1万1千4百人だからその散逸ぶりがうかがえる。ちなみに同市の総人口は77万7千人である。サンフランシスコは日系移民の町、日本町は日系人が固まって住む象徴的なコミュニティというのは私の勝手な思いこみでしかなかった。

 アメリカへの移民が本格化したのは19世紀の末頃からである。もちろんサンフランシスコ周辺に集中していたらしい。ところが、日系人のコミュニティが形成されだした1905年に、新聞社の呼びかけによって排日運動が始まった。そして1942年、日系人は敵国民として全員強制収容所に入れられることになった。

 太平洋戦争が終わって開放されても、そこに戻ってこられない人が多数いたという。1950年代後半から1970年代後半まで続いた町の再開発事業は、日本町の崩壊をさらに加速させていった。

 いまの日本町は、綺麗に整備されコンクリート製の五重塔まである。あたかも、テーマパークや博覧会の日本ゾーンを連想させる佇まいである。しかし、生活のにおいのしなくなった形骸化した町からは、日系人のバイタリティは伝わってこない。日本語の話せない日系三・四世がアメリカ社会に同化していく過程で、避けて通れないやむをえない現象なのかもしれない。

 異国の地に深く根を下ろした日本文化の発信基地が衰退していくのは寂しい。しかし、日本そのものが元気であれば、私たちの文化は必ず世界に広まっていくはずである。
(2004年12月20日)