屋台とさるぼぼ

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[エッセイ 226](新作)
屋台とさるぼぼ

 絢爛豪華な屋台で知られる飛騨の高山祭は、毎年春と秋の2回開催される。

 春の「山王祭」は日枝神社の例祭で、毎年4月14日、15日の2日間、安川通りの南側・上町を舞台に繰り広げられる。1日目の14日には夜祭も催される。秋の「八幡祭」は、桜山八幡宮の例祭で、北側の下町が舞台となる。毎年10月9日、10日の2日間と決まっており、9日には宵祭もある。

 春の山王祭では、動く陽明門ともいわれる12台の屋台が曳き揃えられ、古い街並みを舞台に御巡幸が行われる。このうち、石橋台など3台の屋台ではからくりが奉納される。秋の八幡祭には、飛騨の匠の技が栄える11台の屋台が登場し、江戸情緒漂う下町を舞台に曳き廻し・曳き揃え、そして御神幸が華やかに展開される。八幡祭では布袋台でからくり奉納も行われる。

 高山祭は、金森氏6代、107年間(1586~1692)の統治時代初期に始まったと考えられる。1692年、金森氏は上ノ山に転封となり高山は幕府直轄の天領となる。高山は、江戸文化の影響を強く受けるようになり、祭りには赤坂山王祭神田明神祭を模した屋台が登場するようになる。高山祭はそれ以降も進化を続け、1800年代半ばには、現在の高山独自の姿がほぼ整ったと考えられる。
 
 それにしても、なぜ高山にこれだけの文化が花開いたのだろう。おそらく、この地には進取の気風が充ち、外の文化を吸収発展させるだけの経済力を備えていたのだろう。大工や彫刻師あるいは塗師などの人材も揃っていた。屋台の母体となる組同志が競い合えば、華の競演となるのは当然の帰結といえよう。
 
 この町を歩いていると、いたるところで「さるぼぼ」というお守りを兼ねた顔のない赤い人形に出くわす。さるぼぼとは、「猿の赤ちゃん」という意味である。「さる」は災いが去るを意味し、猿は「えん」とも読んで家内円満、良縁、子縁に掛けたものである。赤い色は、天然痘など病気除けのまじないである。

 長方形をした布きれの、隣り合わせた辺を縫い合わせて手足に、中央の残った部分は対面どうしを合わせて胴体に仕立てる。中に綿を詰め、別に作った丸い頭の部分を縫いつければ極めてシンプルな人形ができる。頭に頭巾を、腹部に腹当てをあて、チャンチャンコを着せれば出来上がりである。

 手間を省くため、手足は円錐形のままで指はない。顔には目鼻は書かないが、これは手間を省くというより子供の想像を膨らませるねらいの方が大きいという。貧乏のどん底で、女の子に与えられるおもちゃといえば手作りの人形くらい。その人形に、子供の厄除けと幸せを託すのもまた親心というものであろう。
 
 水面上に輝く氷山の下には、それを支える九倍もの陰の部分がある。高山祭が光の部分なら、「さるぼぼ」は飛騨が背負う何層倍もの影の象徴である。
【美濃、飛騨の旅ぁ曄2008年11月25日)

※写真は、上:高山の象徴、中橋(春の山王祭のとき、この橋を屋台が渡る)
      下:さるぼぼ