八重洲雑感

[エッセイ 633]

八重洲雑感

 

 八重洲のことを書き始めたら、思い出が次々と吹き出してきた。最初は、テーマを再開発に絞り、それ以上書くつもりはなかったが、やはりもう少し書いておきたいという気持ちが強くなり、再びこのテーマと向き合うことにした。

 

 八重洲は、東京駅を挟んで丸の内と比較されることが多かった。しかし、所詮、皇居を正面にいただく丸の内は表口で、八重洲は後から付け加えられた裏口でしかなかった。われわれサラリーマンの間では、丸の内には高級でハイカラなイメージがあり、八重洲はイナカでダサイと思う人が多かった。丸の内の女子社員はスマートなOL、もう一方の女子はダサいBGとよくいわれていた。

 

 それでも、八重洲にあって丸の内に無いものがあった。デパートである。その大丸デパートは、八重洲側駅ビルの大半を占める大看板であった。しかし、なぜか、「行きも大丸、帰りも大丸、通り抜けも大丸」と揶揄され、三流デパートのように見られていた。面白いことに、東京では日本橋高島屋が一流で八重洲の大丸は三流と見なされていたのに対し、大阪では心斎橋の大丸が一流で難波の高島屋は三流と見なされていた。「所変れば品変る」ということであろうか。

 

 我が社の南隣は広大な空き地だったが、そこは夏になるとビアガーデンとして利用され、夕方からはハワイアンが演奏されていた。夜遅くまで残業するのが当たり前の時代だったが、我が社にはまだ冷房設備はなく、窓を開けたまま机に向かっていた。隣の賑わいに惑わされてか、夜8時で終わるはずの夜なべ仕事が、10時、11時になることもしばしばだった。その空き地には、数年後新光証券のビルが建ち、今はユニゾン八重洲ビルとして健在である。しかし、間もなく「八重洲二丁目中地区」の中核ビルに大変身するはずである。

 

 一方、我が社の北隣にあった中央区立城東小学校は、工事のためいまは兜町の坂本小学校に間借りしているようだ。しかし、再開発の完成する夏休み明けには、東京ミッドタウン八重洲の1階~4階に戻ってくるそうだ。中央区では人口の偏在が極端なため抽選で越境入学を認めており、この小学校もその対象になっているそうだ。この、駅前小学校の入学倍率は、なんと13.7倍になったそうだ。

 

 ところで、当時この会社で働いていた同僚たちは、その縁を繫いでいくため、八重洲会という会を作って毎年親睦会を開いてきた。場所も鍛冶橋先の八重洲富士屋ホテルと決めていた。しかし、そのホテルは8年前に閉鎖となり、近い将来八重洲再開発事業の一つとなる予定である。そのため、会場は日暮里に移し、新たなチャンスを待つことにした。その八重洲会はコロナで中断中だが、いずれまたこの八重洲の地で会合を開くことになるはずである。丸の内とはひと味違う斬新なイメージの八重洲で、元同僚たちと再会できるのが楽しみである。

                       (2022年7月8日 藤原吉弘)